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藤原公則[ふじわら の きんのり]
藤原 公則(ふじわら の きんのり)は、平安時代後期の公家・武士。民部少輔藤原伊伝の子。概ね11世紀の半ばから後期にかけて活動した。 == 生涯 == 藤原道長の家司を務め「近習」と呼ばれた(『小右記』『御堂関白記』)。一方で信濃・河内・尾張・伊勢の国司等地方官を歴任。信濃守在任時の長和2年(1013年)には、道長の外孫である敦成親王(後の後一条天皇)と敦良親王(後の後朱雀天皇)にそれぞれ馬を献上している(『御堂関白記』)。また、関戸院(山城・摂津の国境にあった離宮)の預ともなっており、治安3年(1023年)には高野山参詣から帰途に着く際の道長を同院において饗応している(『扶桑略記』)。 そのほか、長久元年(1040年)には乱立する荘園に憂い、それを阻止すべく荘園の停止を朝廷に訴えるなどの活動を行っている。これを契機として、同年「長久の荘園整理令」を皮切りに数度に亘り荘園整理令が発令された。 河内守源章経の養子となって源姓を称したといわれる。子息のうち公貞の系統が河内国坂戸(現在の大阪府柏原市付近)を地盤として河内源氏に臣従し坂戸源氏と呼ばれたほか、則経の系統は利仁流の大族である後藤氏となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原公則」の詳細全文を読む
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