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藤原 兼長(ふじわら の かねなが)は平安時代末期の公卿。藤原頼長の次男〔一般的には兼長は頼長の長男とされているが、樋口健太郎「藤原師長論」(『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年)所収、原論文は2005年)によれば、師長は保延4年2月生まれ、兼長は同5月生まれで、師長の方が3か月早く誕生したとされている。〕。 == 生涯 == 幼名を父・頼長と同じく菖蒲若と称す。久安元年(1145年)、父頼長より「忠経」の名を与えられるが、祖父忠実の強硬な反対により翌日兼長と改められた。この理由として忠実は、朝敵として討滅された平忠常と同訓であることの不吉を説いている。 当時、父の頼長は、その兄忠通から摂関家の家督を将来的に相続すべき立場にあった。その流れの中で頼長の嫡男たる兼長の官途も順調であり、久安4年(1148年)には11歳にして五位中将に進んでいる。また伯父である忠通の猶子ともなり、同年忠通の近衛邸で元服を果たしている。 しかし、康治2年(1143年)に実子基実を得ていた忠通は、内心では頼長流への家督移譲に対して消極的であり、やがて忠実・頼長と対立してゆく。したがってこれ以降の兼長の昇進は忠通の関与するところではなく、むしろ忠通に代わって久安6年(1150年)に藤氏長者となって実権を握った頼長の威光によるものであった。仁平3年(1153年)には正二位権中納言に達し、翌仁平4年(1154年)には右近衛大将を兼任。この年、春日祭上卿を勤め、多くの殿上人や源為義らの武士を含む大行列を従え、盛大に京を出立している。 太ってはいたが容貌美しく、心ばえも穏やかであったという〔『今鏡』第5 188段。〕。狛光近の指導により舞踊にも長ずるなど、上流貴族の子弟に相応しい教育を受けていた。 しかし、頼長と忠通の対立は、皇室内部の角逐とも相まって極点に達し、遂に保元元年(1156年)の保元の乱の勃発を招くに至った。この際兼長は弟達とともに宇治に待機するが、やがて頼長の敗北・戦死という事態を受けて降伏、出雲国へと配流されてその政治生命を終えた。それから僅か2年の後、配所において21歳で病没している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原兼長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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