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藤原 兼隆(ふじわら の かねたか)は、平安時代中期の公卿。関白右大臣・藤原道兼の次男。 == 経歴 == 福足君と呼ばれた長兄が夭折したため、嫡男として育てられる。正暦6年(995年)正月に従五位上に直叙され、父の道兼は同年4月に関白に就任するが、在任僅か二週間にも満たずに急死。その後、権力の座は叔父の道長に移る。同じく道長を叔父とする従兄弟の伊周・隆家兄弟はこれに反抗したが、兼隆はそのような動きを見せることなく、以後道長の側近としての道を歩む。 右兵衛佐・左近衛少将と武官を歴任し、長保元年(1000年)従四位下に叙せられる。長保3年(1001年)には夢想により左少将から兵部大輔に遷任している。 長保4年(1002年)に従三位・右近衛中将に叙任されて公卿に列す。寛弘5年(1008年)24歳で参議に任ぜられた際には議政官では最年少であったが、翌寛弘6年(1009年)に執政の左大臣・藤原道長の子息である頼通が参議を経ずに権中納言に任ぜられて昇進で先を越され、さらに長和2年(1013年)6月にはその弟の教通も同じく権中納言に昇進してしまう。この状況の中、同年8月に厩舎人(馬の世話をする従者)を殴殺させる事件を起こす〔『小右記』長和2年8月10日条〕。さらに、翌長和3年(1014年)正月には、藤原実資の下女との井戸の使用に関する諍いにより殴られて衣服を奪い取られたとの自らの下女の訴えにより、従者たちに命じて実資の下女の家を略奪・破壊させている。しかし、諍いの原因であった井戸が属する土地の所有権が兼隆ではなく、実は実資のものであったことが判明すると打って変わって低姿勢となり、自らの下女が受けた被害は不問とし、実資の下女に与えた被害は全て補償する旨の書状を実資に対して出している〔『小右記』長和3年正月28日条〕。 長和5年(1016年)後一条天皇の即位に前後して、弟の兼綱を左近衛中将に任官させる替わりに右近衛中将を辞任する。寛仁元年(1017年)に敦明親王が皇太子を辞しているが、兼隆が敦明親王を騙した結果によるものとの風評があったという〔『大鏡』第三巻,右大臣道兼〕。寛仁3年(1019年)権中納言、治安3年(1023年)中納言と累進し、治安4年(1024年)正二位に至る。 長元8年(1035年)に中納言を辞任し、寛徳3年(1046年)に出家。天喜元年(1053年)10月薨去。享年69。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原兼隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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