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藤原内麿 : ウィキペディア日本語版
藤原内麻呂[ふじわら の うちまろ]
藤原 内麻呂(ふじわら の うちまろ、天平勝宝8年(756年) - 弘仁3年10月6日812年11月13日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿藤原北家大納言藤原真楯の三男。官位従二位右大臣従一位太政大臣後長岡大臣と号す。
桓武平城嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された〔。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。
== 経歴 ==
桓武天皇が即位した天応元年(781年)に正六位上から従五位下に昇叙される。内麻呂の最初の妻で、当時桓武天皇後宮女嬬を務めていた百済永継が、延暦4年(785年)に皇子良岑安世を儲けると、同年従五位上、延暦5年(786年正五位下と急速に昇進し、延暦6年(787年)には従四位下に叙せられる。なお、この急速な昇進の背景として、百済永継を担保として内麻呂が桓武天皇の関係を深めた可能性を指摘する意見もある〔井上辰雄「帷幄の良吏-藤原冬嗣」『城西国際大学紀要』第15 巻第2号、2007年3月〕。この間、右衛士佐中衛少将といった武官や、甲斐越前守等の地方官を務める。
のち、右衛士督・内蔵頭刑部卿を歴任し、延暦13年(794年)平安京への遷都の直後に、参議として公卿に列する。参議任官時、台閣では藤原南家の参議・乙叡(34歳)に次ぐ若さ(39歳)であったが、間もなく、右大臣藤原継縄大納言紀古佐美といった大官や、上席の参議であった大中臣諸魚石川真守薨去致仕もあり、延暦17年(798年従三位中納言に昇進する。この間、陰陽頭但馬守造東大寺長官近衛大将を歴任。延暦18年(799年)には造宮大夫に任ぜられ平安京遷都の責任者を務める。延暦24年(805年)12月に藤原緒嗣菅野真道の間で議論されたいわゆる「徳政論争」においては、前殿で桓武天皇の側に侍した。
延暦25年(806年平城天皇が即位すると大納言に、さらに右大臣神王薨御を受けて、同年5月には正三位右大臣に昇進し、台閣の首座を占めた。大同4年(809年従二位。平城朝から嵯峨朝初期にかけては伊予親王の変薬子の変が発生したが難を逃れ、弘仁3年(812年)右大臣の官に就いたまま薨御。享年57。死後、従一位左大臣、まもなく太政大臣の官位を贈られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujiwara no Uchimaro 」があります。



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