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藤原 吉野(ふじわら の よしの、延暦5年(786年) - 承和13年8月12日(846年9月10日))は、平安時代初期の貴族。藤原式家、参議・藤原綱継の長男。官位は正三位・中納言。 == 経歴 == 式家出身の母(藤原百川の娘・旅子)を持つ淳和天皇とは同年齢で親しく(天皇の乳母子とする説もある)、その生涯を天皇の為に捧げる事になる。 若くして大学で学び、主蔵正次いで春宮少進として、当時皇太子であった大伴親王(のち淳和天皇)に仕える。弘仁10年(819年)従五位下・駿河守に叙任、国司として治績をあげて頭角を現す。 弘仁14年(823年)淳和天皇の即位後は都に呼び戻されて、天皇の側近として左近衛少将・左少弁を歴任し、天長3年(826年)には蔵人頭となって天皇の政務を助けた。この間に天長元年(824年)従五位上、天長3年(826年)正五位下、天長4年(827年)には従四位下に昇叙と、急速に昇進を果たす。天長5年(828年)には参議として公卿に列すと、天長9年(832年)には従三位・権中納言に叙任され、右近衛大将・春宮大夫も兼任した。 淳和天皇から仁明天皇への譲位に前後して、正三位・中納言に叙任されるが、専ら淳和上皇の傍につき従った。承和7年(840年)に淳和上皇が危篤となり、兄の嵯峨上皇や仁明天皇に遠慮して「自分の遺骨を散骨して、この世に野心を残していないことを示して欲しい」と遺言すると、吉野は必死に押し留めようとしたが、間もなく上皇が崩御すると、吉野は泣く泣くその指示を実行したという。この時点で、政治の第一線から退き、上皇の息子である皇太子・恒貞親王の為に尽くすことを考えるが、仁明天皇の慰留を受けて中納言の地位に留まっている。 だが、承和9年(842年)7月の嵯峨上皇の崩御後まもなく、恒貞親王や吉野らは謀反の疑いをかけられてしまう。結局、恒貞親王は廃太子とされ、吉野は大宰員外帥に左遷させられた(承和の変)。さらに承和12年(845年)には大宰員外帥も解任されて、山城国に移されるが幽閉されたまま入京は許されず、承和13年(846年)8月12日に失意の内に病死した。享年61。最終官位は散位正三位。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原吉野」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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