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藤原基隆
藤原 基隆(ふじわら の もとたか)は平安時代後期の公卿。大膳大夫・藤原家範の子。 == 経歴 == 承保2年(1075年)に中級貴族の藤原家範の子として生まれる。寛治2年11月(1189年1月)に14歳で従五位下に叙爵。 寛治4年(1190年)左兵衛佐に任ぜられ、堀河天皇の昇殿を聴される。寛治6年(1192年)に従五位上に進み、寛治8年(1194年)に美作守を兼ねる。白河上皇の院近臣として活躍を始めるが、乳母子として天皇にも近侍した。三条大宮に邸を構え、しばしば院行幸が行われている。 嘉保3年(1096年)に正五位下、承徳2年(1098年)従四位下、康和2年(1100年)には従四位上次いで正四位下と急速に昇進を見せる。康和3年(1101年)に摂津守に任ぜられた後は嘉承3年(1108年)伊予守、永久3年(1115年)播磨守、保安2年(1121年)讃岐守、保安4年(1123年)伊予守と院分国の受領を歴任。この間に、多くの仏寺・殿邸を造営。白河上皇の院別当にも補任され、その重任や遷任により蓄えた財力をもって上皇周辺の経済面を支える典型的な院司受領であった。内蔵頭・大膳大夫を兼帯。また、永久5年(1117年)に母・家子が〔『殿暦』永久5年2月2日条。〕、保安4年(1123年)に父・家範が死去している。 大治4年(1129年)に白河上皇が崩御すると、鳥羽上皇の院司となった。大治5年(1130年)従三位・修理大夫に叙任されて公卿に列すが、天承元年12月(1132年1月)に修理大夫を辞任し、翌月出家。天承2年(1132年)3月21日薨去。享年58。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原基隆」の詳細全文を読む
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