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藤原宗成[ふじわら の むねなり] 藤原 宗成(ふじわら の むねなり、延暦4年(天安2年5月27日 (旧暦) == 略歴 == 大同2年(807年)に中務卿兼大宰帥・伊予親王に謀反を勧めたとして捕らえられるが、尋問にあたり謀反の首謀者は伊予親王であると答えた。この事件で藤原吉子・伊予親王母子は川原寺に幽閉され自殺、大納言・藤原雄友は流刑、中納言・藤原乙叡は解官され、藤原南家は没落した。また、宗成自身も流刑に処せられたという(伊予親王の変)。宗成は藤原式家の藤原仲成にそそのかされたともいうが、定かではない。 その後、流刑から赦されたらしく、天長6年(829年)正六位上から従五位下に昇叙、天長9年(832年)従五位上に叙されるなど、淳和朝でわずかに昇進している。承和7年(840年)淳和上皇の崩御に際して、御前次第司次官に任ぜられた。 伊予親王の変以降、世間から見捨てられたような状態となり、貧困のうちに卒去した〔『日本文徳天皇実録』天安2年5月27日条〕。享年74。最終官位は散位従五位上。
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