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定恵[じょうえ]
定恵(じょうえ、皇極天皇2年(643年)- 天智天皇4年12月23日(666年2月2日))は、飛鳥時代の学僧。定慧、貞恵とも書かれる。父は中臣鎌足(藤原鎌足)。母は車持国子の娘・与志古娘。出家前の俗名は「''中臣真人''(なかとみのまひと)」、弟に藤原不比等がいる。 653年(白雉4年)5月遣唐使とともに唐へ渡る〔『日本書紀』巻二五白雉四年五月壬戌十二日条「四年夏五月辛亥朔壬戌。發遣大唐大使小山上吉士長丹。副使小乙上吉士駒。駒。更名糸。學問僧道嚴。道通。道光。惠施。覺勝。弁正。惠照。僧忍。知聡。道昭。定惠。定惠。内大臣之長子也。安達。安達。中臣渠毎連之子。道觀。道觀。春日粟田臣百濟之子。學生巨勢臣藥。藥豐足臣之子。氷連老人。老人。眞玉之子。或本、以學問僧知。辨・義德、學生坂合部連磐積而増焉、幷一百廿一人、倶乘一船。以室原首御田爲送使。」。〕。長安懐徳坊にある慧日道場に住し〔『藤氏家伝』貞慧伝「故以白鳳五年(四年の誤り)歳次甲寅、隨聘唐使到于長安、住懐德坊慧日道場」。〕、玄奘の弟子の神泰法師〔『釋氏稽古略』「玄奘三蔵法師伝」〕に師事した。遊学して内経外典に通じたという。665年(天暦年)9月、朝鮮半島の百済を経て日本に帰国した〔『日本書紀』巻二五白雉五年二月条「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」。〕が、同年12月大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなった〔『元亨釈書』では没年を和銅7年(714年)とする。〕。高句麗の僧道賢が誄(しのびごと)をつくっている。 藤原氏の前身である「中臣氏」は神祇に関わり、仏教伝来に際しては中臣鎌子、中臣勝海らの強硬な反対者を出している。しかも鎌足は当時の重臣であり、その長男である人物〔当時、後に鎌足の後継者になった不比等はまだ誕生しておらず、定恵は鎌足の一人息子であった。〕が出家するというのは、熱心な仏教信者として知られる蘇我氏においてもなかった前代未聞の事態であった〔ただし、中臣渠毎の子である僧侶・安達が定恵と一緒に唐に留学しており、中臣氏の子弟が出家・入唐することは特殊ではないとする見方もある(遠藤慶太「入唐僧貞恵と藤原鎌足」(初出:篠川賢・増尾伸一郎 編『藤氏家伝を読む』(吉川弘文館、2010年)/所収:遠藤『日本書紀の形成と諸資料』(塙書房、2015年))。〕。これに関しては定恵の出生に関わる謎がある、あるいは僧侶になった方が唐留学に優位であった、鎌足が日本の外交責任者で当時は僧侶が外交使節として活動していたことと関係している等の意見があるが、未だ定説を見ない。 == 脚注 ==
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抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「定恵」の詳細全文を読む
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