翻訳と辞書
Words near each other
・ 藤原定季
・ 藤原定実
・ 藤原定家
・ 藤原定家母
・ 藤原定家自筆本源氏物語
・ 藤原定恵
・ 藤原定文
・ 藤原定方
・ 藤原定時
・ 藤原定能
藤原定長
・ 藤原定隆
・ 藤原定頼
・ 藤原定高
・ 藤原実光
・ 藤原実兼
・ 藤原実兼 (太皇太后宮亮)
・ 藤原実兼 (蔵人)
・ 藤原実冬
・ 藤原実国


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

藤原定長 : ウィキペディア日本語版
藤原定長[ふじわら の さだなが]

藤原 定長(ふじわら の さだなが、久安5年(1149年) - 建久6年11月11日1195年12月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿藤原北家勧修寺流藤原光房の五男。母は丹後守藤原為忠の娘。正三位参議。霊山と号す。
== 経歴 ==
諸国の国司を経た後、勧修寺流の子弟の常として実務官僚としての実績を積み、後白河院の信任を得て三事兼帯を果たす。これは兄の経房光長と並ぶ栄誉であり、三兄弟としてのそれは古今に類例のないことと賞賛された(『山槐記』元暦元年9月18日条)。
後白河院の傍にあって実質的に院伝奏の任に当たり、特に文治年間には頻繁に鎌倉幕府との連絡役を務めていたことが『吾妻鏡』にも記録されている。文治5年(1189年)7月に参議に任ぜられ、建久6年(1195年)1月には正三位に昇るが、同年11月に47歳にして卒去。
文治3年(1186年)には造東大寺長官に任じ、東大寺の復興事業にも携わっている。また日記として『山丞記』を残している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤原定長」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.