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藤原定長[ふじわら の さだなが]
藤原 定長(ふじわら の さだなが、久安5年(1149年) - 建久6年11月11日(1195年12月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流・藤原光房の五男。母は丹後守藤原為忠の娘。正三位、参議。霊山と号す。 == 経歴 == 諸国の国司を経た後、勧修寺流の子弟の常として実務官僚としての実績を積み、後白河院の信任を得て三事兼帯を果たす。これは兄の経房・光長と並ぶ栄誉であり、三兄弟としてのそれは古今に類例のないことと賞賛された(『山槐記』元暦元年9月18日条)。 後白河院の傍にあって実質的に院伝奏の任に当たり、特に文治年間には頻繁に鎌倉幕府との連絡役を務めていたことが『吾妻鏡』にも記録されている。文治5年(1189年)7月に参議に任ぜられ、建久6年(1195年)1月には正三位に昇るが、同年11月に47歳にして卒去。 文治3年(1186年)には造東大寺長官に任じ、東大寺の復興事業にも携わっている。また日記として『山丞記』を残している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原定長」の詳細全文を読む
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