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滋野井実宣[しげのいじつせん]
滋野井 実宣(しげのい さねのぶ)は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。参議・滋野井公時の長男。日記に『実宣卿記』がある。 == 経歴 == 治承5年(1181年)従五位下に叙爵し、文治4年(1188年)侍従に任ぜられる。建久3年(1192年)美濃権介を兼ね、建久5年(1194年)従五位上に叙された。 建久6年(1195年)正五位下・左近衛少将に叙任される。美濃権介を再度兼任し、建久8年(1197年)従四位下に進む。正治2年(1200年)従四位上、正治3年(1201年)播磨介、建仁2年(1203年)正四位下となり、左近衛権中将・備前権介を歴任。建永2年(1207年)蔵人頭に補任。同年中に参議に任ぜられ公卿に列し、承元2年(1208年)但馬権守を兼ねて従三位に進んだ。承元3年(1209年)父・公時が病によって明日出家する予定であるとのことを関白・近衛家実に告げ送っている〔『猪隈関白記』承元3年8月16日条〕。 承元4年(1210年)正三位に昇叙。建暦元年(1211年)右衛門督・検非違使別当を務め、権中納言に任ぜられる。建暦3年(1213年)従二位、建保5年(1217年)正二位に叙され、建保7年(1219年)中納言に転じる。 左衛門督を経て、元仁元年12月(1225年2月)父・公時の極官である参議を大きく上回る権大納言に進む。翌嘉禄元年(1225年)辞退するが、嘉禄3年(1227年)伊勢神宮への奉幣のために還任する。この間の嘉禄2年(1226年)、長男の公賢が姻婚の悩みを抱えて逃げ去り、出家した際に藤原定家は「厳父憂慮の餘り、還って一子を失う歟」、「至愚の父」などと実宣の子息への対応を評価している〔『明月記』嘉禄2年正月29日条〕。安貞2年(1228年)病のため権大納言を辞し、数日後に薨去した。享年52。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「滋野井実宣」の詳細全文を読む
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