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藤原宮子[ふじわら の みやこ] 藤原 宮子(ふじわら の みやこ、生年不詳 - 天平勝宝6年7月19日〈754年8月11日〉)は文武天皇の夫人。藤原不比等の長女。母は賀茂比売。異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。 == 略歴 == 文武天皇元年(697年)8月、持統天皇の譲位により即位直後の文武天皇の夫人となる(『続日本紀』)。なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘も嬪となっている。宮子が文武夫人となった背景には、持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている阿閉皇女(元明天皇)付き女官の県犬養三千代の存在があったと考えられており、それまで少壮官僚であった不比等は文武即位に伴い中央政界に台頭している〔義江明子『県犬養橘三千代』2009年〕。 大宝元年(701年)、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会う事はなかった。文武や父不比等等肉親の死を経て、723年に従二位に叙され、首皇子が即位した翌724年には正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、737年にやっと平癒、息子天皇と36年ぶりに対面した。そして、孫阿倍内親王が即位(孝謙天皇)した749年には太皇太后の称号を受け、754年に崩御した。享年70前後と推定される。 長く苦しむ事となる病気にかかりながらも、跡継ぎを生み、天皇の后としての最低限の役割は果たした宮子であったが、その跡継ぎ聖武天皇には安積親王薨去後はついに男子の跡継ぎが生まれず、一族藤原氏と他氏貴族との権力闘争などもあいまって、崩御後20年も経たないうちに天武皇統は事実上断絶してしまう事となった。 なお、病気回復の時に関わった僧侶が玄昉であり、橘諸兄のもとで玄昉が権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原宮子」の詳細全文を読む
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