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藤原 広業(ふじわら の ひろなり)は平安時代中期の公卿、漢詩人。参議・藤原有国の次男。字は藤琳。 == 経歴 == 一条天皇の御世である長徳2年(996年)昇殿を聴される。同年12月に文章生に補され、長徳3年(997年)天皇の六位蔵人に補される。同年12月に秀才に補される。 近江権大掾・式部少丞を経て、長保2年(1000年)従五位下・筑後権守に叙任され、長保3年(1001年)には勘解由次官に任ず。長保5年(1003年)一条天皇の五位蔵人を務める一方、東宮学士を兼任し居貞親王(後の三条天皇)とも接触。寛弘元年(1004年)内裏に犬の死穢があった際にはこれを参議・藤原行成に伝えている〔『権記』寛弘元年閏9月18日条〕。民部権少輔・右少弁を経て寛弘4年(1007年)正五位下に叙される。寛弘5年(1008年)には備後権介・文章博士、寛弘6年(1009年)には伊予介を兼帯した。 寛弘8年(1011年)従四位下に叙される。同年6月、皇太子居貞親王が即位(三条天皇)するが7月に父・有国が薨去し喪に服す。服解中の10月に二階昇進して正四位下に叙され、12月の復任後左京大夫・播磨守を兼ね、式部大輔を務めた。播磨守在任中の寛仁2年(1018年)に前太政大臣・藤原道長の随身である右近衛府生・下毛野公忠・右近衛番長・下毛野光武・播磨貞安に無礼を受ける。その後、道長はこの三人を懲戒している〔『御堂関白記』寛仁2年2月26日条〕。 東宮学士を経て寛仁4年(1020年)正四位上・参議に叙任され公卿に列す。翌寛仁5年(1021年)には伊予権守を兼ねる。治安4年(1024年)年号を撰進している。万寿元年12月(1025年1月)従三位に陞叙。その後、播磨権守・勘解由長官を歴任した。 万寿5年(1028年)4月13日薨去。享年53。最終官位は参議従三位勘解由長官〔『日本紀略』万寿5年4月13日条〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原広業」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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