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伏見広綱[ふしみ ひろつな] 伏見 広綱(ふしみ ひろつな、生没年不詳)は、平安時代末期の人物。源頼朝の右筆。伏見冠者藤原広綱と呼ばれる。 == 生涯 == 伏見氏は本姓は藤原氏で、遠江国佐野郡の豪族〔太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年、5190頁〕。広綱も同郡掛河(現在の静岡県掛川市)の出身。 文筆に秀で、鎌倉に幕府を構えた源頼朝が、朝廷の事に通じている者を探していた所を安田義定の推挙を受け、寿永元年(1182年)5月12日、鎌倉に参じて頼朝の右筆となった。その直後に頼朝が源義重の娘祥寿姫に宛てた艶書を届ける使いをしている〔『吾妻鏡』寿永元年7月14日条〕。 同年11月10日、頼朝の愛妾亀の前を飯島(逗子市)の自邸に匿っていた事で、頼朝の妻北条政子の怒りを買い、政子の命を承けた牧宗親に邸を破壊された。広綱は亀の前を連れ、命からがら大多和五郎義久(三浦義明の子)の鐙摺(葉山町)の邸に逃れた。12日、頼朝は宗親を伴って鐙摺を訪れ、広綱に事の経緯を聞き、宗親を問いただした。宗親は言葉もなく平伏したが、頼朝は宗親の髻を切って恥辱を与えた。 12月16日、広綱は政子の怒りによって遠江国に流罪となった。
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