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藤原弟貞[ふじわら の おとさだ]
藤原 弟貞(ふじわら の おとさだ)は、奈良時代中期の皇族・貴族。左大臣・長屋王の子。初名山背王(やましろおう)のち臣籍降下して藤原朝臣姓となる。官位は従三位、参議。
== 経歴 == 長屋王と藤原不比等の娘・長娥子の間の子として生まれる。同母の兄弟には安宿王や黄文王がいる。当初山背王を名乗るが、長屋王邸の木簡には山背王らの名は見つからず、長娥子所生の子らは長屋王とは別の屋敷に住んでいたとされる。神亀6年(729年)2月の長屋王の変に際しては、長屋王と正妻・吉備内親王及びその子である膳夫王・鉤取王・葛木王・桑田王らが自死する一方で、他の夫人所生の子とともに生き残った。 天平12年(740年)従四位下に直叙されるが、これは蔭位制の規定によると親王の子相当となり、長屋王の怨霊に対する配慮であったという見方もある〔塩入、15p〕。天平勝宝9歳(757年)従四位上へ17年ぶりに昇叙し、但馬守に任ぜられた。同年6月28日に山背王は橘奈良麻呂が謀叛を計画しており、大伴古麻呂も関知していると訴え出た。その後、奈良麻呂らは謀叛を起こそうとしていたと認定され、処罰された(橘奈良麻呂の乱)。兄の安宿王や黄文王も処罰されたが、山背王は密告の賞として7月5日に従三位に叙せられた。この直後に臣籍降下して母姓である藤原朝臣姓を賜与されたと見られる〔塩入、18p〕。以降は藤原弟貞と名乗った。 天平宝字4年(760年)には坤宮(紫微中台)大弼に任ぜられ、天平宝字6年(762年)には参議となった。天平宝字7年(763年)10月17日薨去。最終官位はに参議・礼部卿従三位。 子孫に伊太比・恵子がおり、大同3年(808年)永原朝臣姓を賜与され、以降は永原氏を名乗った〔『日本後紀』大同3年12月9日条〕
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原弟貞」の詳細全文を読む
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