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藤原忠君 藤原 忠君(ふじわら の ただきみ、生年不詳 - 安和元年(968年))は、平安時代中期の貴族。名は忠尹とも記される〔『群書類従』26雑部、『尊卑分脈』醍醐源氏など〕。藤原北家、右大臣・藤原師輔の五男。冷泉天皇・円融天皇の外叔父。官位は正四位下・右兵衛督。 == 経歴 == 藤原師輔の五男として生まれるが、祖父の藤原忠平の養子となる〔『尊卑分脈』〕。 右衛門佐を経て、天徳2年(958年)村上天皇の五位蔵人に任ぜられる。天徳4年(960年)正月には兄弟の藤原伊尹・兼通・兼家・遠量とともに叙位を受け、正五位下に叙せられる。前代未聞の兄弟5人の叙位という栄誉に対して、父の藤原師輔は「若是栄華之極哉」と述べたという〔『九暦』天徳4年正月7日条〕。同年10月右兵衛督。応和2年(962年)従四位下に叙されて蔵人を去る。 康保4年(967年)同母妹・藤原安子所生の冷泉天皇が即位するが、翌安和元年(968年)卒去〔。最終官位は右兵衛督正四位下。3人の同母兄(伊尹・兼通・兼家)が円融朝で外戚として摂関を歴任した一方、忠君は早逝したため公卿昇進を果たせなかった。 歌人であり、天徳元年(957年)清涼殿詩合、天徳3年(959年)清涼殿女房歌合で方人を務め、応和2年(962年)清涼殿前栽合にも出詠した。勅撰歌人として、和歌作品が『拾遺和歌集』に2首入集している〔『拾遺和歌集』1181,1258〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原忠君」の詳細全文を読む
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