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藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期の公卿。藤原師通の長男。日記『殿暦』を残す。 == 生涯 == === 白河院政期 === 『栄花物語』の続編の最後(40巻「紫野」)は当時15歳で中納言となった忠実が奈良の春日大社で春日祭を主催して帰京する場面で締めくくられ、忠実の元で摂関家が再び興隆する期待感をもって終わっている。 しかしながら現実には康和元年(1099年)に父の師通が急死した際、22歳で権大納言の忠実は、最年少で摂政となった曽祖父・頼通の26歳という年齢を大きく下回っていたこと(しかも頼通は就任から10年近く父・道長の後見を受けた)に加え、まだ大臣に任官されていなかったことにより、関白には任じられず内覧にとどまった。また、既に引退していた祖父・師実にも忠実を支える余力はなかった。ただし、内覧であっても過去には藤原時平や道長のように摂関同様の実権を振るった例もあり、忠実にも挽回の可能性が残されていたが、源義親の濫行や東大寺僧の赤袈裟着用問題では自らの判断を下すことが出来ず、政治的未熟をさらけ出した。特に致命的であったのは康和4年(1102年)に大衆に対する取締の不徹底を理由に、白河法皇が忠実の叔父である興福寺別当・覚信を解任しようとした際、これを取り成そうとして却って法皇の怒りを買ってしまい、8月1日に法皇から政務関与への拒絶を通告された事件であった(『中右記』)〔その一方で、法皇は自分以外の者には決して見せなかった父・後三条天皇の宸記から部類記を作成するように忠実に命じて、完成した部類記をこの年の10月23日に堀河天皇に与えている(『中右記』、作成経緯については『中外抄』仁平元年7月6日条)。これは天皇の補佐である摂関に必要な秘事を忠実に伝授すると同時に摂関である忠実を治天の君の指揮下に置こうとする方針があったと考えられている(松薗斉『王朝日記論』法政大学出版局、2006年。 ISBN 978-4-588-25052-1 P43-47)。〕。 こうした一連の事件のために摂関家は完全に院政の風下に立つ事になり、忠実は摂関家の栄華を再び取り戻すという夢を生涯かけて追求する事になる。 忠実の最初の妻は源俊房の娘・任子だったが、子の早世により婚姻関係は消滅してしまう。その後に正室となった源顕房の娘・師子は忠実より8歳年長で、既に白河法皇の子・覚法法親王を産んでいた。『今鏡』によると、師子に一目惚れした忠実が祖母の麗子に頼み、法皇から譲り受けたとする。 康和2年(1100年)に右大臣となり、長治2年(1105年)に堀河天皇の関白に任じられる。嘉承2年(1107年)、忠実と摂関家にとって最大の危機が鳥羽天皇の践祚と共に起こった。鳥羽天皇の践祚に尽力した藤原公実が天皇の外戚〔公実は鳥羽天皇の生母藤原苡子の兄にあたる。〕である事を理由に摂政の地位を望んだのである。白河法皇も一時迷うが、院庁別当・源俊明の反対でその望みは斥けられ、忠実は辛くも摂関の地位を保持することができた。 嘉承3年(1108年)年正月の除目は、平正盛が「最下品」でありながら「第一国」である因幡国の受領となるなど法皇の近臣が多く受領に任じられたが、この除目を主催したのは他ならぬ忠実であり、法皇への従属は決定的なものとなっていた。永久元年(1113年)には再び関白に転じるが立場の弱さは相変わらずで、永久の強訴では藤氏長者として興福寺の説得を試みるが効果はなく、防御に向かった北面武士が上洛を目指す興福寺大衆と衝突して流血の惨事が起こるなど失態が続いた。事態打開のため、各地に摂関家領荘園を形成して経済基盤の建て直しを図るが、法皇の警戒を招き荘園の拡大は抑制される。 この頃、法皇により長男・藤原忠通と藤原公実の娘・璋子の婚姻の話がもちあがるが、璋子の素行に噂があったことや、忠実が閑院流を快く思っていなかったこともあって、破談になっていた。同時期、忠実は娘の勲子を鳥羽天皇に入内させるよう、法皇に勧められるが固辞している。ところが永久5年(1117年)、璋子は鳥羽天皇に入内する。衝撃を受けた忠実は鳥羽天皇の希望もあって、保安元年(1120年)、勲子を入内させようと工作を始めた。だが、以前入内の勧めを断りながら鳥羽天皇の希望を受けて再度入内させようとしたことに法皇は激怒し、ただちに忠実の内覧は停止された。内覧は天皇に奏上される文書を見る職務であり、この職務を剥奪されることは事実上関白を罷免される事に等しかった。驚いて駆けつけてきた中御門宗忠に、忠実はただ「運が尽きた」と語った(『中右記』)。この時、法皇は忠実の叔父・花山院家忠を関白にするつもりだったが、藤原顕隆の反対により翌保安2年(1121年)、忠通が関白となる。この後、忠実は宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。なお、次男・頼長が生まれたのはこの謹慎中のことである〔もっとも、この謹慎期間にあっても忠実は大殿として摂関家領の経営を独占しており、後の政界復帰後に権力を振るえた背景には藤氏長者でありながら自領をほとんど持ちえなかった忠通が、忠実の経済力に依存せざるを得なかったからだとする見方もある(樋口健太郎「院政期摂関家における大殿について」初出:『日本史研究』484、2002年/所収:樋口『中世摂関家の家と権力』校倉書房、2011年)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原忠実」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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