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藤原惟成 : ウィキペディア日本語版
藤原惟成[ふじわら の これしげ]
藤原 惟成(ふじわら の これしげ/これなり、天暦7年(953年) - 永祚元年11月1日(989年12月1日))は、平安時代中期の貴族。初名は惟賢。字は式太〔『二中歴』〕。藤原北家魚名流、右少弁藤原雅材の長男。官位正五位上権左中弁
== 経歴 ==
文章生を経て、六位蔵人式部少丞を歴任し、天延3年(975年)ごろ従五位下三河権守に叙任される。師貞親王の乳母子であった関係によって早くからその身辺に仕え、親王の皇太子時代には東宮学士侍読を務める。天元5年(982年右少弁
永観2年(984年)師貞親王の即位花山天皇)に前後して従五位上に昇進し、左少弁兼五位蔵人に任ぜられる。花山天皇の信頼が篤くその側近として、天皇の叔父である権中納言藤原義懐と並んで権勢を振るった。特に、破銭法(破銭忌避の禁止)・沽売法(物価統制令)・荘園整理令を初めとする「花山新制」の施行に当たっては、実務面において中心的な役割を担い、その権勢は世上五位摂政とまで称されたという〔『江談抄』〕。永観3年(985年)に検非違使佐左衛門権佐)を、寛和2年(986年)正月には権左中弁を兼ね三事兼帯の栄誉に浴する。
しかし、同年6月に発生した寛和の変によって花山天皇が退位出家に追い込まれると、藤原義懐とともに自らもこれに従って出家し、政界から引退した。年齢は34歳。最終官位は権左中弁正五位上左衛門権佐。法名は悟妙〔、後に寂空と改める〔『扶桑略記』〕。出家後は長楽寺辺に住み、にも勝るほど修行に励んだという〔『栄花物語』巻第二,花山たづぬる中納言〕。
永祚元年(989年)11月1日卒去享年37。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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