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藤原 惠洋(ふじはら けいよう、1955年7月7日 - )は、日本の建築史家、建築学者、都市史家、デザイン史家、まちづくりオルガナイザー、路上観察学会黎明期メンバー、アクティヴィスト。工学博士(東京大学)。藝術学修士(東京藝術大学)。熊本県出身。 == 人物 == 九州大学大学院教授(芸術工学研究院)。文化庁文化審議会世界文化遺産特別委員会委員。1988年東京大学において工学博士の学位取得後、東京大学生産技術研究所研究員、千葉大学工学部工学部工業意匠学科助手、國學院大学兼任講師、九州芸術工科大学講師・助教授、オランダ国立ライデン大学文学部日本学センター客員教授を歴任。2005年より現職。建築史家村松貞次郎東京大学名誉教授・博物館明治村館長門下の一員として藤森照信東京大学名誉教授や堀勇良元文化庁専門官等と同門。東京建築探偵団や路上観察学会の黎明期の最年少メンバー。 アカデミーにおいて、文化経済学会〈日本〉理事、日本文化政策学会理事、文化資源学会理事、日本産業技術史学会理事、日本学術振興会科学研究費補助金審査委員会委員、芸術文化振興基金地方文化委員会委員、日本建築学会歴史意匠委員会委員、日本デザイン学会評議員、AAS(Association for Asian Studies 国際アジア研究学会)会員を、等を歴任。 さらに、福岡アジア文化賞委員会委員、同賞芸術文化賞選考委員会副委員長。 福岡県認定まちづくり専門家。福岡県八女市八幡校区まちづくり活動組織めだか塾顧問。建築史家村松貞次郎東京大学名誉教授門下の一員として藤森照信や堀勇良元文化庁専門官等と同門。東京建築探偵団や路上観察学会の黎明期の最年少メンバー。 社会貢献活動として、文化庁文化審議会世界文化遺産特別委員会委員、「明治日本の産業革命遺産 造船国内比較調査委員会」委員長をはじめ全国の自治体において文化遺産の保存管理、再生保全、創造的活用等を通した近代化産業遺産や文化的景観等の世界遺産登録化、国史跡保存管理計画策定、等を先導。 一方、市民参加のまちづくり実践を1984年以降の東京都世田谷区で活動開始した後は、人、モノ、コトの文化資源や固有資源を活かした地域再生を東北地方や信越地方において実践、九州へ異動後は、山口県周南市、山口市、下関市、福岡県北九州市、八女市、熊本県菊池市、天草市、大分県竹田市等の地方社会において鋭意展開中である。 1980年代より強靭なフィールワーカーとして日本国内全県踏査以来、世界76カ国に及ぶ異文化比較研究を進め、数多い実証的フィールドを開拓。その過程で学究世界に留まらず「行動する学者」(読売新聞)として参画型共生社会の実現に向け市民参加型まちづくり現場を多数先導するようになった。 1990年代以降、とりわけ市民参加型まちづくりや幅広いワークショップ概念の啓発と社会的受容に大きく貢献。数多くのワークショップ実践のファシリテーターとして活躍。さらに90年代後半から、アートと社会を結ぶ紐帯づくりの意義と必要を理念と実践の両側面から啓発していった。 1997年、九州芸術工科大学芸術工学部芸術情報設計学科の開設時には、わが国でも黎明期の芸術文化環境論の研究拠点を創出、以降九州大学との統合を経ながら同研究分野の開拓と展開につとめ、独自の人材育成メソッドを通し、数多くの有為な研究者・実践者・表現者を輩出している。 総合計画、都市計画マスタープラン、福祉まちづくり計画、文化振興計画、生涯学習施設再生基本構想、町村合併に伴う新市建設計画、博物館構想、文化会館再生計画、近代化産業遺産を活用したまちづくり、世界文化遺産インタープリテーション計画、経産省伝統的工芸産地指定化検討、等幅広い分野から地方自治体の公共政策策定へ力強く関わっている。 元来は、阿蘇藤原氏の末裔。母の故郷の菊池で育つ。惠洋の名前は著作時には「恵」洋と記すが、研究者としての研究発表論文時には「惠」洋と示している。画文家、観照家、随想家として作品・著作・散文に親しみ、俳号・雅号は巨蟹堂・蘭蟹堂・樹蟹堂・藍蟹堂・七夕星人・風爺・ふ印ボス、等数多い。舞台芸術作品創作時のペンネームは安積聡介(あずみそうすけ)。 研究専攻は、日本近代建築史学ならびに芸術文化環境論である。建築・都市・生活空間の諸相から幕末・明治以降の日本とアジアの近代化が相互に織りなす相互作用を歴史的文脈の中で跡づけてきた。とりわけわが国における「洋風化」を旨とした外発的近代化を評価してきた建築文化の中で内発的かつ自己省察的とも言える「和風化」過程の意味論的分析を通して、近代日本の建築と都市を通したアイデンティティ獲得の経緯を跡づけてきた。そこから発展的に、明治以降の日本文化形成過程におけるナショナリズムの興隆と内省的表現過程を検討してきている。 元来の研究基盤は建築史学であり、基盤を強化する過程で、実証的歴史学、デザインサーヴェイ学、芸術文化論、文化政策学、文化資源学、文化経済学等を展開しながら相互の補完作用を見ている。 また本学における教育活動の主軸としている芸術文化環境論は、1997年に独自の観点から芸術文化領域と社会の橋渡しを意図して創出した学際領域であり、現在は全国的に重要な領域として幅広い社会的意義を有するに至っている。 芸術工学研究院環境デザイン部門建築史学・文化財学講座、ならびに芸術工学府環境・遺産デザインコース遺産理論講座に所属し、学府教育では文化遺産の保護と社会的活用に焦点を絞り文化遺産を用いた地域再生への取り組み事例の検証を進めている。ここでは世界文化遺産から文化的景観や指定文化財、登録有形文化財に至る対象を幅広くとらえつつ実証を展開している。学部では芸術情報設計学科芸術文化論講座に所属し地域固有の芸術文化資源への着目を促す実証的な地域フィールドワーク学習を導入展開している。より包括的な芸術工学部における学部教育では、芸術文化環境論、芸術文化企画演習、芸術情報プロジェクト演習、芸術情報総合演習、芸術文化施設論、デザイン史入門、海外フィールドワークを通し、具体的な地域社会を対象とし固有の文化資源の再発掘と活用策のデザイン提案を通し地域再生を先導する実践的プログラムを創出してきた。芸術工学府における大学院教育では環境・遺産デザインコースに所属し、芸術文化環境特論、国際文化遺産保護法、環境・遺産デザインプロジェクト演習1、3を担当している。 さらに2008年度から2012年度まで5年間にわたり展開した大学院HME育成ユニットでは、ホールマネジメント講座の本学常勤教員として、芸術文化と環境、を論じ、多数の受講生に対して芸術文化を社会環境面と文化政策面から理論づけてきた。 社会活動では、1980年代より幕末・明治以降の日本近代建築遺構を対象とした総合的な遺構調査の枢軸となった「日本近代建築総覧」事務局作業を基盤に全国的な調査研究ネットワークの中心軸をつとめ、全国的な遺産状況、近代建築に関する基礎データーと建築史学的評価の整備、保存・保全、再生と利活用、等幅広い観点から日本近代建築史学研究領域に貢献してきた。近年は文化庁補助事業で展開中の各都道府県近代和風建築総合調査に対する専門家としての指導的役割を果たしている。また各地に現存する近代建築遺構を対象とし国登録有形文化財化に先導的な貢献を果たしてきた。 さらに、2012年度より文化庁文化審議会世界文化遺産特別委員会委員として、わが国の世界遺産政策に参画、とりわけ日本国内候補の選考に関わり、世界文化遺産に関する総合的包括的な知見を社会還元する役割を果たしている。同時に日本ICOMOS国内委員会委員として専門的な観点から世界遺産研究に貢献している。 一方、70年代終わりから住民参画型まちづくり活動の指導と実践を展開しており、参画型共生社会の実現に向け研究室をインキュベーターにした住民・行政・企業・非営利組織をつなぐ幅広い活動では定評がある。80年~90年代、わが国におけるワークショップ草創期のファシリテーターとして、合意形成、政策形成、人材育成の独創的な方法論や研修プログラムを多岐に渡り創出してきた。こうした人材育成の波及効果は著しく、現在、九州・西日本で市民参加型ワークショップやファシリテーション活動において指導的活動を行う人材の多くに初動期の指導とパラダイム上での影響を与えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原惠洋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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