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藤原慶子[ふじわら の よしこ] 藤原 慶子(ふじわら の よしこ、延文3年/正平13年(1358年) - 応永6年5月8日(1399年6月12日))は、室町時代前期の女性。室町幕府第3代将軍・足利義満の側室。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教らの生母。通称は北向殿〔 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.235〕。 == 生涯 == 父は三宝院の坊官・安芸法眼で〔 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.226〕、慶子ははじめ義満の侍女として仕えた〔 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.1〕。後に義満の側室となり、義持・義教らを産んだ。他には応永4年(1397年)に入江殿聖仙を産んでいる〔。義満が北山御所に移ると慶子は義持と共に室町御所にあった。応永6年(1399年)5月8日の夕刻に死去〔 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.9〕。享年42〔 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.236〕〔『迎陽記』には「5月8日、戊寅、晴(中略)今夕大樹(義持)御母儀北向御事あり、去年より凕劣(弱り衰える)御悩みと云々、御年42也」とある。〕。 将軍の生母だったため従一位が贈られ〔 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.227〕、息子2人が将軍に就任すると年忌仏事等は特に鄭重に行なわれたという。戒名は勝鬘院殿栄室慈蕃禅定尼〔。 義満は慶子の死に悲しみの態度を見せず、彼女が死んだ翌日に家臣の邸宅で大酒を飲んでいたという〔『迎陽記』には赤松邸で「大飲」したとあり、筆者の東坊城秀長は「彼御事御悲嘆なきか」と感想を述べている。〕。さらに忌中の6月23日には北山御所で酒宴が行なわれ籤も行なわれたりしたとされ〔『迎陽記』には「希代の事也」とある。〕、この義満の慶子に対する態度が義持との不仲につながったとされている(ただし義満は応永13年(1406年)7月7日に慶子の菩提料所として美濃座倉郷を寄進している)。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原慶子」の詳細全文を読む
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