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藤原 懐平(ふじわら の かねひら)は、平安時代中期の公卿。参議・藤原斉敏の三男。 ==生涯== 祖父・実頼が関白として公卿の筆頭にあり、また父・斉敏が参議となった康保4年(967年)に、元服とともに右衛門権少尉として出仕を始め、安和2年(969年)花山天皇の即位に伴い従五位下に叙爵。その後、実頼・斉敏が相次いで死去したものの、親族の推挽などもあり順調な官途を歩み、少納言・弁官・修理大夫を経て、寛和2年(986年)に造豊楽院の功により従三位に任じられ、非参議ながら公卿となった。 ところが、この年に花山天皇が譲位したことで、摂関も懐平と同じ小野宮家の伯父・頼忠から、別系である九条家の藤原兼家に移ってしまった。その後は兼家派の人材の急速な昇進の一方で、懐平は長く非参議修理大夫のまま据え置かれ、長徳元年(995年)から翌年にかけて疫病などにより多くの公卿が亡くなったあとの補任でも、弟で実頼の養子となっていた実資が参議から権中納言、ついで中納言と昇任された一方、懐平には異動の機会はなかった。 長徳4年(998年)になって参議に進んだものの、播磨権守、美作守を兼官するのみで、いくつかの造宮のほかには上卿となる機会にも乏しかったが、寛弘4年(1007年)藤原道綱が東宮大夫から東宮傅に転じた後任として、東宮・居貞親王(のちの三条天皇)の東宮大夫に任じられた。この任官により、その後の三条天皇との密接な関係が作られることとなり、寛弘8年(1011年)の三条天皇の即位とともに従二位に昇叙。ついで長和2年(1013年)には権中納言、長和4年(1015年)正二位に昇進した。 三条天皇は公卿筆頭の左大臣・藤原道長との不和から、小一条家および小野宮家の人々を側近とし、懐平も小野宮家の一員として小一条家から皇后となった娍子の皇后宮大夫となって引き続き近侍した。このため、長和元年(1012年)に道長が病気となった際に、それを喜ぶ人々の一人に挙げられた。しかし一方で道長は、娘で三条天皇の中宮となっていた妍子の参内の際に、供奉しなかった数名の公卿の中に懐平の名も挙げて、年来親しくしているのにどうして来なかったのだろうと注記しており、懐平が温厚な人柄で敵を作らずに交際している様子もうかがえる。 その後、天皇と道長の関係は、天皇の体調の悪化が進退と絡んで重大な局面を迎え、天皇は相撲節会の勝敗に皇位の安泰を賭ける思いを懐平に吐露するなど、側近として頼りとするが、この頃から懐平も体調不良に見舞われていたようで、長和5年(1016年)三条天皇の退位後に、兼帯していた皇后宮大夫および右衛門督を辞しており、翌年上皇より約1ヶ月前に死去した。享年65。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原懐平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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