|
藤原 成房(ふじわら の なりふさ/なりのぶ、天元5年(982年) - 没年不詳)は、平安時代中期の貴族。初名は成周。藤原北家、権中納言・藤原義懐の三男。官位は従四位上・右近衛権中将。 == 経歴 == 数え年5歳の寛和2年(986年)に寛和の変が発生。成房の従兄弟に当たる花山天皇の後を追って、父の権中納言・藤原義懐が出家している。 長徳2年(996年)正月に従五位上・筑前権守に叙任されるが、同年に発生した長徳の変で左遷された藤原伊周の名を避けるためか〔槙野15 〕、6月に成周(なりちか)から成房(なりふさ/なりのぶ〔『尊卑分脈』にある「改-信」は房のよみを信(=のぶ)と記したものか(槙野16 )〕)に改名している。のち、右兵衛佐・近衛少将と武官を歴任。 長保2年(1000年)7月下旬から9月初旬にかけて中宮・藤原彰子が中宮権亮・源則忠の堀川邸に滞在し〔『日本紀略』『権記』〕、則忠に家主の功労として叙位がなされることとなったが、則忠自身からこの邸宅は既に成房の所領となっており成房を加叙すべきとの申し出があり、成房が昇叙される〔『権記』長保2年9月8日条〕。このことから既に成房は源則忠の娘と結婚していたと想定される〔槙野18 〕。 しかしこの頃、成房は病により白川にある寺に住んでおり、昇叙の連絡の使者もこの寺に遣わされた。さらに同年12月の皇后・藤原定子の崩御をきっかけに出家を志して〔槙野19 〕、既に出家していた父・義懐が住んでいた飯室を訪れるが、父の説得(既に子息の2人を仏門に入れているため1人は朝廷に仕えることで仏法の御利益が衆生に広まるよう務めること、義懐自身の存命中は出家を思いとどまること)や、藤原行成と源成信からの激励により思いとどまり、翌長保3年(1001年)正月に藤原行成に連れられて帰京する〔『権記』長保3年正月7日条〕。 同年3月には左大臣・藤原道長から近衛中将の任官打診を受けた藤原行成からの譲りを受けて、成房が右近衛権中将に任ぜられる〔『権記』長保3年3月18日条〕。 長保4年(1002年)2月3日飯室にて出家。今回は前年末の東三条院の崩御に伴う忌中と当時発生していた花山院の懊悩危急が出家の原因とみられるが、既に源成信は前年に出家済で行成の説得も奏効しなかった〔槙野23 〕。この時の年齢は21歳。最終官位は右近衛権中将従四位上。法名は素覚。〔『権記』長保4年2月3日条〕 没年は不詳であるが、寛弘5年(1008年)の花山院崩御の際に、父や兄弟とともに入棺の奉仕を行ったことや、寛弘8年(1011年)に行成が成房とともに鴨院を参詣し夜通し語り合った旨の記事が『権記』に見られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原成房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|