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藤原成通[ふじわら の なりみち] 藤原 成通(ふじわら の なりみち、承徳元年(1097年) - 応保2年(1162年))は、平安時代後期の公卿。権大納言藤原宗通の四男。初名・宗房。法名・栖蓮。正二位・大納言。蹴鞠・今様の達人として知られ、特に前者においては後世まで「蹴聖」と呼ばれて、長く蹴鞠の手本とされた。 == 経歴 == 成通の家系は、曽祖父頼宗、祖父俊家いずれも右大臣にまで昇進したが、父が白河法皇の側近でありながら大臣に至ることなく50歳で没したために、摂関家や村上源氏に押される形で衰退の一途を辿っていた。 8歳で叙爵して10歳の時に鳥羽天皇即位に併せて侍従に任じられる。白河法皇の寵臣であり、弁が立ち、諸道にも優れていたが、失言も多かったらしく(『古事談』)、大治4年(1129年)に白河法皇が成通を公卿に推挙した際も鳥羽上皇の反対で実現しなかった。また、当時の参議要件の一つとされていた蔵人頭に就任できなかった事も出世を遅らせる原因となった。天承3年(1131年)に参議となり、康治2年(1143年)に正二位、保元元年(1156年)には大納言に昇ったものの、出世の望みは薄いとして平治元年(1159年)に出家してしまう。だが、皮肉にも直後から同族の昇進が相次ぎ、大臣任命が相次ぐ事になった。 笛・和歌・漢詩・今様・馬等諸道に精通したが、特に彼の名を後世に知らしめているのは蹴鞠であり、「蹴聖」と賞賛された。「台盤に乗って鞠を蹴ったが音一つしなかった」「侍の肩の上に乗って鞠を蹴ったが当の侍はそれに気付かなかった」「成通が蹴る鞠は雲に届いた」「清水の舞台の欄干を蹴鞠をしながら一往復した」など様々な伝説が伝えられている。彼の日記『成通卿口伝日記』には、彼が蹴鞠の上達のためにいかに努力してきたかが綴られている。また、今様では、後白河天皇と並ぶ達人としても知られており、『十訓抄』には薬師如来に今様を奉納して他人の病を治したという説話が伝えられている。また、寂超や西行が在俗時代に上司として仕えており、特に西行とはその縁から生涯にわたって親交が篤くともに和歌に親しんだ事でも知られている。和歌は『金葉和歌集』・『千載和歌集』等の勅撰和歌集に23首採録されており、歌集に『成通集』がある。 寂超作と推定されている『今鏡』では人間味溢れる教養人として好意的に描かれており、大臣になれずに出家してしまった事を非常に惜しまれている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原成通」の詳細全文を読む
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