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藤原扶幹[ふじわら の すけもと]
藤原 扶幹(ふじわら の すけもと、貞観11年(869年)〔『公卿補任』天慶元年条による。同書承平7年条では年齢74歳とあり逆算すると貞観6年(864年)生となる。〕 - 天慶元年7月10日(938年8月8日))は、平安時代前期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の玄孫。駿河守・藤原村椙の次男。官位は従三位・大納言〔『公卿補任』『尊卑分脈』。『日本紀略』天慶元年7月10日条では正二位とするが、贈位か。〕。 == 経歴 == 周防掾・近江権少掾・中務少丞を経て、仁和3年(887年)従五位下に叙爵。宇多朝では兵部少輔・民部少輔を経て、寛平7年(895年)信濃守に任ぜられ地方官に転じる。 醍醐朝前半も常陸介・上野介と引き続き地方官を務める。扶幹は藤原忠平の側近で、延喜14年(914年)に忠平が右大臣に昇り太政官の首班に立つと、翌延喜15年(915年)に扶幹も正五位下・権右中弁に叙任され京官に復帰する。こののち、延喜16年(916年)右中弁、延喜17年(917年)従四位下、延喜21年(921年)左中弁、延喜22年(922年)従四位上と、忠平執政下で弁官を務めながら順調に昇進し、延喜23年(923年)60歳で参議に任ぜられ公卿に列す。同年4月に忠平の妹・藤原穏子が中宮に冊立されると中宮大夫に任ぜられたほか、議政官として大宰大弐・左大弁を兼任した。 朱雀朝でも順調に昇進し、承平2年(932年)正四位上、承平3年(933年)従三位・中納言、承平7年(937年)大納言に至る。天慶元年(938年)6月辞職を請いまもなく許されて致仕、同年7月10日薨去。最終官位は致仕大納言従三位〔。また、この間の延長8年(931年)から天慶元年(938年)の致仕に至るまで、源氏長者として淳和奨学両院別当を務めている〔『姉言記』文治4年6月30日条〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原扶幹」の詳細全文を読む
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