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藤原政則 : ウィキペディア日本語版
藤原政則[ふじわら の まさのり]

藤原 政則(ふじわら の まさのり)は、平安時代中期から後期の武将藤原経輔の子〔、あるいは経輔の父隆家の子ともされている。菊池氏の祖菊池則隆の父。
== 生涯 ==
長徳3年(997年)に但馬国に生まれる。別名は蔵規(まさのり)とも記述される。
寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇で戦功のあった大宰権帥藤原隆家の下で大宰少弐であり、一説にはこの隆家が但馬国に流された時の子息ともしている〔児玉幸多編『日本史年表・地図』吉川弘文館版発行、2010年の藤原氏系図では政則を隆家の実子としている。〕。
菊池氏は、隆家の孫とされる則隆が肥後国に下向して土着したとして藤原姓(藤原北家)を自称し、各種系図も上もこれに沿った内容となっている。だが昭和34年(1959年)、志方正和は公家が残した日記や『源氏物語』を研究した結果、隆家の後裔とするのは仮冒であり、政則について、肥後国住人と記述されていることをもって、政則と則隆の代(延久2年(1070年)頃)に菊池周辺に土着したとする説を発表し、この説が現在まで有力とされていおり、歴史学者の石井進もこの説を支持している(詳しくは菊池氏の項を参照)。
藤原実資の牧司や太宰大監・長和2年(1013年)に対馬守、長和4年(1015年)に肥前守などを歴任し、藤原定任殺害の嫌疑を受けて追捕をされたことも記述されている。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤原政則」の詳細全文を読む



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