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藤原 楓麻呂(ふじわら の かえでまろ、養老7年(723年)- 宝亀7年6月13日(776年7月3日))は、奈良時代の貴族。名は楓麿または楓万呂とも表記される。藤原北家の祖である参議・藤原房前の七男。官位は従三位・参議。 == 経歴 == 天平宝字2年(758年)正月西海道問民苦使に任じられ、9月に民の疾苦29件を太政官に上申、大宰府がそれに対処している。同年8月正六位上から従五位下に昇叙。のち、文部(式部)少輔・東海道巡察使・但馬介・大判事を歴任する。 天平宝字8年(764年)9月に藤原仲麻呂の乱が勃発すると、従四位下に昇叙されてその追討に当たり、乱終結後の10月には美濃守に任ぜられ、翌天平神護元年(765年)正月には勲四等を叙勲されている。 以降称徳朝において、右兵衛督・大宰大弐・右大弁と要職を歴任する。神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御すると、大葬の御装束司を務める一方、弾正尹として道鏡に下野国への下向を促す任務も果たした。 宝亀元年(770年)10月の光仁天皇即位に伴い従四位上に昇叙されると、翌宝亀2年(771年)正四位下、宝亀3年(772年)には参議に任じられて公卿に列し、宝亀5年(774年)には従三位に叙せられるなど、光仁朝では順調に昇進した。またこの間、右衛士督・大蔵卿・摂津大夫を歴任している。 宝亀7年(776年)6月13日薨去。最終官位は参議従三位大蔵卿兼摂津大夫。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原楓麻呂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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