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藤原泰衡[ふじわら の やすひら]
藤原 泰衡(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡の4人がいるが、少なくとも三弟・忠衡と五弟・通衡の2人は異腹の弟とされる。〔『尊卑分脈』より。〕 父の後を継ぎ、奥州藤原氏の当主となるが、父ほどの力量も才覚もなく、日に日に強まっていった源頼朝の圧力の屈し、「判官贔屓」で有名な悲劇の英雄・源義経を自害に追いやり、それに前後して義経派であった忠衡をはじめとする弟3人(高衡は生き残った)をも殺害した。しかし、その後の奥州合戦で頼朝に敗れ、最終的には部下に裏切られ、奥州藤原氏は滅亡した。このような結果から、後世の評価は非常に低い。 == 生涯 ==
=== 母太郎、当腹太郎(当腹の太郎) === 奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の次男として生まれる。母は陸奥守・藤原基成の娘。異母兄の国衡は「父太郎」「他腹之嫡男」と称されたのに対し、正室を母とする泰衡は「母太郎」「当腹太郎(当腹の太郎)」と呼ばれ、嫡男として扱われた(愚管抄)。『玉葉』文治4年(1188年)1月9日条には秀衡の次男であるにもかかわらず、「太郎」と記述されている。秀衡正室所生の子は何人かいたか、もしくは泰衡のみだったのかは正確には不明だが、秀衡の6人の息子(男子)の中で泰衡が正室の長男だったと推測できる。まさに父方の東北の血と母方の京の血が織り交ざった貴公子とも呼ぶべき存在で、父方、母方双方から東北の血を受け継いでいた異母兄・国衡とは対照的であった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原泰衡」の詳細全文を読む
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