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藤原済時[ふじわら の なりとき]
藤原 済時(ふじわら の なりとき)は、平安時代中期の公卿。左大臣藤原師尹の次男。 == 生涯 == 父師尹が没した翌年の天禄元年(970年)に参議に任官、以後順調に立身し政務に当たった。酒を通じて関白藤原道隆に近く、一条朝初期において藤原朝光らとともによく道隆を補佐した。『大鏡』においては、箏の達人と評されながらも〔村上天皇が済時の妹芳子に箏を教えるのを、横で聴いていただけで習得してしまったという。〕あまりに芸を出し惜しみ世間から批判されたこと、自分への進物を庭に並べて来客に見せびらかしたこと、痴者と言われた甥の永平親王に饗宴の接待をさせ大恥をかいたこと、などといった逸話が語られ、全体的に虚栄心が強く気難しい人物であったと評されている。その一方で有職故実に通じており、後に故実の大家となる藤原実資が当時中宮藤原遵子の中宮大夫を務めていた済時の部下となった際に「可堪任者」と高く評価〔『小右記』天元5年3月11日条〕して、しばしば故実の教えを乞うた〔『小右記』正暦4年3月28日・5月4日条〕ことを記している。長徳元年(995年)の疱瘡の大流行により、道隆、朝光らと相前後して死去した。死後、娘の娍子が三条天皇の皇后となったため、右大臣を追贈された。 日記としては『済時記』が存在していたが、散逸して今日では逸文のみが残されている。 娍子が生んだ皇子女には、皇太子敦明親王(小一条院)をはじめ、当子内親王、性信法親王らがある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原済時」の詳細全文を読む
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