|
藤原 秀康(ふじわら の ひでやす、生年不明 - 承久3年10月14日(1221年10月30日))は鎌倉時代の武将。父は藤原秀宗(和田義盛の弟宗実(宗妙)の子〔『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(関幸彦、2012年、吉川弘文館、ISBN 978-4642064521)〕)。母は源光基の女。弟に藤原秀能、藤原秀澄。藤原北家流。 北面武士、西面武士として院に仕える畿内近国の武士の一族で、下野守、河内守、備前守、能登守など国司を歴任し、富裕ならびなき者とされた。後鳥羽上皇の討幕計画に参与し、有力御家人の三浦義村の弟・三浦胤義を説得して味方に引き入れた〔秀康の祖父和田義盛は三浦一族であり、和田合戦の際にも三浦義村に協力を求めている。〕。 承久3年(1221年)の承久の乱では挙兵の際に京都守護・伊賀光季を攻め殺す。秀康の所従の押松に有力御家人へ宛てた義時討伐の院宣を持たせ使者として鎌倉へ送るが、押松は幕府方に捕らえられてしまう。 『吾妻鏡』によれば、北条政子が御家人を説得するために鎌倉で行った演説で秀康は胤義とともに上皇に讒言した逆臣として名を挙げられており、幕府からは京方の中心人物と目されていたことがうかがえる。 京方の大将軍として弟の秀澄とともに美濃国と宇治川で幕府軍と戦うが敗北。後鳥羽上皇は秀康らを見捨てて、乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出した。秀康は奈良に潜伏するが、10月に河内国で捕らえられ、秀澄とともに京で斬られた。 優れた歌人であった弟の秀能は出家して許され、後に遠島された後鳥羽法皇を慕い隠岐島へ渡っている。 ---- ==関連項目== *承久の乱 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原秀康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|