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藤原範季 : ウィキペディア日本語版
藤原範季[ふじわら の のりすえ]

藤原 範季(ふじわら の のりすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公家藤原南家高倉流の祖。後白河法皇近臣順徳天皇の外祖父。
== 生涯 ==
式部少輔・藤原能兼の子。保延5年(1139年)10歳の時に父・能兼が没し、兄・範兼の養子になる。文章得業生から越後大掾を経て、久寿元年(1154年対策に及第し、翌久寿2年(1155年大膳亮に任じられる。保元2年(1157年)には六位蔵人に補せられて後白河天皇に仕え、翌保元2年(1158年従五位下に叙爵された。
どのような伝を辿ったのか不明だが、平治元年(1159年)の平治の乱で没落した源義朝の六男・範頼を引き取って自らの子・範資と一緒に養育している。長寛3年(1165年)4月に範兼が死没すると、残された子の範子兼子範光らを引き取った。
近江守常陸介上野介など受領職を歴任。安元元年(1175年)式部権少輔。安元2年(1176年)1月に陸奥守を兼任、3月には藤原秀衡の後任として鎮守府将軍も兼ねて4月に陸奥国へ下向し、治承2年(1178年)10月以前に帰洛した。
九条兼実の忠実な家司である一方、兼実が嫌う平家とも繋がりを持ち、平清盛の姪である教子を正妻に迎え、清盛の義弟である能円に姪(義妹)である範子を娶せている。
治承4年(1180年)7月に高倉天皇の第四皇子・尊成親王が誕生し、範季が邸に迎えて養育にあたった。また、姪の範子・兼子がその乳母となっている。養和2年(1182年従四位下、翌寿永2年(1183年)正月従四位上に昇叙。同年7月に安徳天皇が平家一門と共に都を落ちると、後白河法皇によって新たな帝の選定が行われ、8月に範季が養育する4歳の尊成親王が擁立されて即位後鳥羽天皇)した。範季はその践祚にあたって奔走したという。元暦2年(1185年木工頭兼皇太后宮亮に任じられるが、文治2年(1186年)両官職を辞した。
後白河法皇の指示か奥州藤原氏との縁によるものか不明だが、源義経を庇護し、文治2年(1186年興福寺に潜伏中の義経と接触し匿まっている。ただし、子の範資は義経の追討に積極的で、義経が九州に向けて都落ちする際、在京していた範頼の手勢を率いて出陣している(河尻の戦い)。11月義経を匿ったことが露見し、源頼朝の要請によって解官された。
建久6年(1195年)11月、範子の娘・源在子が後鳥羽天皇の第一皇子・為仁親王を産んだ。建久7年(1196年正四位下。娘の重子は建久6、7年頃に女房として内裏に出仕し後鳥羽天皇の寵愛を受けて、建久8年(1197年)9月第二皇子・守成親王を産んだ。同年12月15日には後鳥羽天皇侍読を勤めた労により従三位に叙せられ公卿に列した。建久9年(1198年)後鳥羽天皇が譲位し、3歳の為仁親王が即位(土御門天皇)した。娘・重子の産んだ守成親王は後鳥羽上皇の寵愛厚く、正治2年(1199年)4月に皇太弟に立てられた。
建仁元年(1201年)に発生した建仁の乱では首謀者の一人・藤原高衡が一時邸内に逃げ込む。高衡は範季と親交のあった藤原秀衡の四男で奥州藤原氏の滅亡後は秀衡の6人の息子の中で唯一生き残って降伏し、一時流刑にされていたが、梶原景時の取り成しで鎌倉幕府食客(客将)となっていた人物であった。結局、同じ乱の首謀者である城長茂の郎党が唐橋(信濃)小路にある範季邸に押しかけて高衡は連れ出され、最期は幕府の追っ手によって討ち取られている。高衡が討たれたことを聞いた範季は嘆息したという。
建仁2年(1202年正三位。建仁3年(1203年従二位。式部権少輔。元久2年(1205年)5月10日薨去。享年76。
没後の承元4年(1210年)に孫である守成親王が即位(順徳天皇)したことにより、従一位左大臣を贈られた。範季は死後の贈官を考えて、最期まで出家しなかったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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