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藤原経宗[ふじわら の つねむね]
藤原 経宗(ふじわら の つねむね)は、平安時代末期の公卿。従一位左大臣左大将。大炊御門家の初代の藤原経実の四男(あるいは五男)。同母姉に贈皇太后・懿子(二条天皇の生母)がいる。 == 生涯 ==
=== 前半生 === 保安4年(1123年)に叙爵。大治3年(1128年)に昇殿を果たすと、右少将・左中将を歴任する。母の公子(藤原公実の女)は待賢門院の姉妹であり、天承元年(1131年)に父が薨去した後は閑院流の庇護を受けていたと思われる。康治元年(1142年)、近衛天皇の蔵人頭に抜擢される。しかし崇徳天皇の退位と待賢門院の出家によって閑院流は勢力を衰退させ、経宗の昇進も停滞する。久安5年(1149年)、大納言の三条実行と久我雅定がそれぞれ右大臣・内大臣に昇進して、大納言以下に欠員が生じたことによる玉突き人事の結果、経宗は31歳でようやく参議となり公卿に列した。 久寿2年(1155年)7月に近衛天皇が崩御したことで、経宗に転機が訪れる。大方の予想に反して即位した雅仁親王(後白河天皇)は、経宗と従兄弟の関係にあった。さらに姉の懿子(源有仁養女・後白河天皇妃)所生の守仁親王(後の二条天皇)の立太子に伴い春宮権大夫に任じられ、皇太子の外戚として政治的地位を上昇させる。春宮大夫の中御門宗能は70歳を過ぎて高齢のため、経宗が実質的に春宮坊をとりしきった。 その後の昇進もめざましく、保元元年(1156年)4月に権中納言、9月には正三位に叙せられ右衛門督を兼任、保元2年(1157年)には検非違使別当、保元3年(1158年)には従二位権大納言となった。この時期に経宗は保元の乱に敗れ知足院に幽閉されていた藤原忠実を訪ねて、政務の機微について教えを乞い、摂関への野心を育んだという〔『愚管抄』〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原経宗」の詳細全文を読む
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