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藤原 経輔(ふじわら の つねすけ)は、平安時代中期から後期の公卿。中納言・藤原隆家の次男。 == 経歴 == 寛仁2年(1018年)従五位下に初叙。同年12月に藤原道長邸において大納言・藤原道綱の加冠によって元服し〔『御堂関白記』『小右記』〕、讃岐権守に任ぜられる。翌寛仁3年(1019年)従五位上・左兵衛佐、寛仁4年(1020年)正五位下・右近衛少将と当初は武官を歴任し、治安2年(1022年)従四位下に叙せられる。 治安3年12月(1024年1月)父・隆家の辞任を受けて権右中弁に任ぜられた後は、万寿2年(1025年) 右中弁、長元元年(1028年)従四位上、長元2年(1029年)正四位下・左中弁と、一転して弁官を務めながら昇進する。 この間、万寿元年(1024年)に後一条天皇以下が一条院内裏の紫宸殿で相撲を観戦していた際、蔵人式部丞・源成任と髻を掴み合うほどの激しい喧嘩に及ぶ〔『小右記』万寿元年7月17日条〕。さらに数日後、経輔は成任に一方的に暴行を加えた上に、宿所に逃げ込んだ成任を従者に追わせ宿所を破壊させるという事件を起こしている〔『小右記』万寿元年7月21日条〕。 長元7年(1034年)後一条天皇の蔵人頭(頭弁)に任ぜられる。蔵人頭在任中の長元9年(1036年)正月に従姉の子でもう一人の蔵人頭(頭中将)である藤原俊家の従者に殴打され、俊家は除籍されるが、経輔も約半月の間朝参を停止された。同年4月後一条天皇の崩御により蔵人頭を止められたが、9月には後朱雀天皇の蔵人頭に再任した。 長暦2年(1038年)右大弁を兼ね、翌長暦3年12月(1040年1月)先任の異母兄・良頼と参議に並んだ。長久元年(1040年)従三位に叙せられる。 寛徳2年(1045年)良頼とともに権中納言に昇任。永承元年(1046年)中宮・章子内親王の権大夫を兼帯し、その後内親王が皇太后・太皇太后に転上するに伴って皇太后宮大夫・太皇太后宮大夫となる。永承6年(1051年)正二位、康平元年(1058年)大宰帥に叙任され、治暦元年12月(1066年1月)権大納言に至った。 治暦4年(1068年)以来病気と称して出仕せず、再三辞表を奉ったため、延久元年(1069年)7月7日に権大納言の辞任を許された。翌延久2年(1070年)正月10日出家。永保元年(1081年)8月7日薨去。享年76。 『後拾遺和歌集』(1首)、『千載和歌集』(1首)に入集する勅撰歌人である〔『勅撰作者部類』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原経輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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