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藤原継業[ふじわら の つぐなり] 藤原 継業(ふじわら の つぐなり、宝亀10年(779年)〔『公卿補任』による。『続日本後紀』承和9年7月5日条の薨伝では「時年六十五」とあることから、逆算すると宝亀9年(778年)生まれとなる。〕 - 承和9年7月5日(842年8月14日))は、平安時代初期の公卿。名は嗣業〔『日本後紀』大同元年4月14日条〕または緒業〔『尊卑分脈』〕とも表記する。藤原式家、参議・藤原百川の三男。母は伊勢大津の娘。淳和天皇の外叔父。官位は従三位・伊予権守。 == 経歴 == 父・百川は光仁・桓武両天皇を皇嗣に擁立した功臣であったことから、兄・藤原緒嗣とともに桓武天皇に信任されて順調に昇進する。延暦19年(800年)内舎人より抜擢され従五位下・侍従に叙任、延暦23年(804年)には正五位上に昇叙されている。またこの間、大学頭・左兵衛佐を歴任するとともに、常陸介・信濃介・信濃守などの地方官も兼官した。大同元年(806年)4月には兄・緒嗣とともに、桓武天皇より賜与された200戸の封戸を朝廷に返上しようとしたが、この封戸は桓武天皇が特別に賞して賜与したものであるとして、皇太子・安殿親王(のち平城天皇)は返上を許可しなかった。 平城朝においては、兵部大輔・左京大夫・大和守を歴任し、大同3年(808年)従四位下に叙せられる。嵯峨朝では大同5年(810年)従四位上に叙せられたのち、近江守・兵部大輔・神祇伯・伊予権守を歴任する。しかし、伊予権守の任を終えて帰京後は朝廷への出仕をしなかった。 弘仁14年(823年)淳和天皇が即位するとその外戚として正四位下に、天長3年(826年)には従三位に昇叙され公卿に列す。その後も官職に就くことはなく、承和9年(842年)高橋里の邸宅で没した。最終官位は散位従三位。
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