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藤原縄麻呂[ふじわら の ただまろ] 藤原 縄麻呂(ふじわら の ただまろ、天平元年(729年) - 宝亀10年12月13日(780年1月24日))は、奈良時代の公卿。縄万呂・綱麻呂とも記される。右大臣・藤原豊成の四男。母は参議・藤原房前の娘。官位は従三位・中納言、贈従二位・大納言。 == 経歴 == 藤原豊成の四男であったが、聖武朝最末年の天平感宝元年(749年)4月に兄弟でいち早く従五位下に叙爵される。孝謙朝で侍従・兵部少輔を務めたのち、淳仁朝では備中守・礼部大輔などを歴任し、この間天平宝字5年(761年)従五位上、天平宝字8年(764年)正月に正五位下と順調に昇進する。 同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱に際して、従四位下に叙任、翌天平神護元年(765年)1月乱における功労により勲三等に叙勲され、まもなく正四位下に昇進した。称徳朝では、御前騎兵将軍・民部卿・勅旨大輔・侍従・近江守を歴任する一方で、時期は明らかでない(天平神護2年〈766年〉頃?〔『続日本紀』天平神護2年3月26日条で既に参議の官職に就いていることが記されている。『公卿補任』では天平宝字8年(764年)任官〕)が参議に任ぜられて公卿に列し、天平神護2年(766年)正四位上、神護景雲2年(768年)従三位と引き続き順調に昇進した。 神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、左大臣・藤原永手らとともに白壁王を皇嗣に擁立(光仁天皇)する。翌宝亀2年(771年)中納言。光仁朝では議政官として皇太子傳・勅旨卿・中衛大将を兼任した。宝亀8年(777年)の内大臣・藤原良継の薨去等により、大臣であった大中臣清麻呂・藤原魚名に次ぐ太政官第三位の席次にまで昇る。宝亀10年(779年)7月に朝廷の実力者であった参議・藤原百川が薨去して以降は、その後を継いで朝政にあたったが〔『続日本紀』宝亀10年12月13日条〕、同年12月13日薨去。享年51。最終官位は従三位中納言兼勅旨卿侍従勲三等。即日、従二位大納言の官位を追贈された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原縄麻呂」の詳細全文を読む
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