|
藤原 良世(ふじわら の よしよ、弘仁14年〔(823年)- 昌泰3年11月18日(900年12月12日))は、平安時代前期の公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の八男。官位は従二位・左大臣、贈従一位。致仕大臣と号した。 == 経歴 == 承和8年(841年)内舎人に任官、仁明朝では左馬権少/大允・右兵衛大尉を歴任する。 嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い蔵人に任ぜられ、右衛門少尉次いで同大尉を兼ね、翌仁寿元年(851年)に従五位下に叙爵。こののち、文徳朝では兵衛佐・衛門佐を歴任する。兄・藤原良房が太政大臣に任ぜられた斉衡4年(857年)に従五位上に叙せられると、天安2年(858年)清和天皇の即位に前後して正五位下・右近衛少将、貞観2年(860年)従四位下、貞観6年(864年)従四位上・蔵人頭、貞観10年(868年)正四位下と以降は順調に昇進し、貞観12年(870年)参議に任ぜられ公卿に列した。またこの間の貞観2年(860年)には姉の皇太后・藤原順子の大夫に任ぜられた。 良世が五位から公卿に昇進するまでの官人としての立身時期は、ちょうど兄・藤原良房が権勢を得ていた時期と重なっており、これと争うことなく従ったことで〔文徳天皇の側近として蔵人・右近衛中将を歴任し、次期皇位継承を巡って良房と天皇の対立が緊迫化した天安元年(857年)に突如越前権守に左遷されて中央政界から排除された異母兄・藤原良仁(冬嗣七男)とは対照的である(栗原159-164 )〕〔請田正幸は『公卿補任』の良房に関する記述形式や良世が『興福寺縁起』において良房が両親の為に始めた興福寺の長講会が自分が引き継がなければならないと述べていることから、藤原良房は良世と同母兄弟(大庭王の娘の所生)とする説を唱えている(請田47-53 )。請田説によれば、良世は清和天皇に近い外戚の1人ということになる。〕、順調な昇進を果たしている。 貞観14年(872年)兄の良房が薨去するが、同年従三位・中納言、貞観19年(877年)正三位、元慶6年(882年)大納言、寛平3年(891年)右大臣、寛平5年(893年)従二位と、清和・陽成・光孝・宇多朝にかけても順調に昇進を続けた。寛平7年(895年)左大臣・源融の薨去により太政官の首班を占め、翌寛平8年(896年)には左大臣に任ぜられるが、同年致仕し致仕大臣と呼ばれた。 醍醐朝の昌泰3年(900年)長く皇太后宮大夫・太皇太后宮大夫として仕えた太皇太后・藤原明子の崩御に遅れること約半年の11月18日薨去〔没年齢については、78歳説(『公卿補任』・『尊卑分脈』他)、77歳説(『日本紀略』・『皇代暦』)、79歳説(『扶桑略記』)などがある。〕。没後従一位の贈位を受けた。 一説に藤氏長者の初代にも擬せられ、長者として『興福寺縁起』を撰したことでも知られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原良世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|