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藤原親隆[ふじわらちかしたかし]
藤原 親隆(ふじわら の ちかたか)は、平安時代後期の公卿。藤原為房の七男。正三位・参議。四条宰相、四条三位と号す。 == 経歴 == 永久2年(1114年)大膳亮に任ぜられる。蔵人を経て、保安4年(1123年)従五位下・右衛門少尉に叙任。 上総、尾張、信濃、伊予などの国司を歴任し名を挙げ、久寿2年(1155年)守仁親王(後の二条天皇)の春宮亮を兼ねる。保元3年(1158年)従三位に叙され公卿に列し、同年守平親王の即位によって正三位に進んだ。応保元年(1161年)に参議となる。鳥羽法皇の別当として近侍する傍ら、藤原頼長の家司でもあり、近衛天皇の死を法皇が頼長の呪詛によるものと信じているという情報を、頼長に伝えた人物と伝わる(『台記』久寿2年(1155年)8月27日条)。しかし保元元年(1156年)の保元の乱において頼長に与した形跡はなく、その後も政治生命を保っている。平清盛室の時子の同母妹を妻の一人に迎え、平家に接近した側面もあった。 保安2年(1121年)の関白内大臣家歌合や崇徳院百首などに出詠。『金葉和歌集』などの勅撰集に16首の和歌が残る。長寛元年(1163年)に出家し、法名を大覚と称す。その2年後の永万元年(1165年)、67歳で死去。 異母兄の重隆、同母兄の朝隆とともに、『雲図抄』の作者に擬せられる一人でもある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原親隆」の詳細全文を読む
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