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吉田 資経(よしだ すけつね)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。参議吉田定経の長男。『平家物語』の作者にも擬せられている。 == 経歴 == 文治4年(1188年)従五位下に叙爵。文治6年(1190年)信濃守に任ぜられ、少年受領となる。建久4年(1193年)三河守に遷り、建久6年(1195年)従五位上に昇叙。正治元年(1199年)父の出家により祖父・経房の養子となって家督を継いだ。 建仁3年(1203年)正五位下に叙せられ、建永元年(1206年)中宮権大進に任ぜられる。承元3年(1209年)には左衛門権佐を務め、建暦2年(1213年)防鴨川使となる。建保2年12月(1215年1月)五位蔵人に補任され、建保6年(1218年)右少弁に任ぜられることで、三事兼帯を果たした。同年春宮大進を兼任。 建保7年(1219年)従四位下権右中弁に叙任。まもなく左中弁に転じた。承久3年(1221年)従四位上蔵人頭に叙任され、皇后宮亮を兼ねた。 承久4年(1222年)正四位下右大弁に叙任される。同年参議に任ぜられて公卿に列し、貞応2年(1223年)には近江権守造東大寺長官を兼帯する。貞応3年(1224年)従三位に叙せられるが、弁官と造東大寺長官を辞任して大宰大弐に任ぜられた。翌年には参議を辞退し、安貞2年(1228年)に正三位に叙せられた。天福2年(1234年)出家して法名を乗願とした。 仁治元年(1240年)閏10月、父の遺領を異母弟・経賢と争っている(『平戸記』)。建長2年(1250年)に所領や家に伝わる記録などを子息に配分して、翌建長3年(1251年)7月15日に71歳で薨去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田資経」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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