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藤原 道長(ふじわら の みちなが)は平安時代中期の公卿。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、末子の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。 晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けている。 ==生涯== ===出生から青年期=== 康保3年(966年)、藤原兼家の五男(または四男)として京都に生まれる。同母の兄姉に道隆・道兼・超子(三条天皇母)・詮子(一条天皇母)らがいる。 祖父の師輔は村上天皇の治世を右大臣として支えた実力者で、娘の中宮・安子が後の冷泉天皇、円融天皇を生んだことで外戚として立場を強化した。これにより、師輔の家系の九条流は本来嫡流であるはずの兄の実頼の家系(小野宮流)よりも優位に立つことになる。 天禄元年(970年)、摂政・太政大臣だった実頼が死去すると師輔の長男の藤原伊尹が摂政となるが、2年後に急死してしまう。後継を次男の兼通と三男の兼家が争うが、結局兼通に関白が宣下される。兼通と兼家は不仲で、兼家は不遇の時期を過ごすことになる。貞元2年(977年)に兼通は病死するが死ぬ寸前に兼家を降格させることまでしている。 兼通の最後の推挙により小野宮流の藤原頼忠が関白となったが、天元元年(979年)に頼忠は兼家を右大臣に引き上げてやり、ようやく不遇の時期を脱した。次女の詮子を円融天皇の女御に入れ、天元3年(980年)に第一皇子・懐仁親王を生んだ。 同年正月、15歳にして従五位下に初叙した。その後、侍従を経て右兵衛権佐となる。 永観2年(984年)、円融天皇は花山天皇(冷泉天皇の皇子)に譲位し、東宮には詮子の生んだ懐仁親王が立てられた。兼家は懐仁親王の早期の即位を望んだため、寛和2年(986年)6月に兼家と三男の道兼が中心となって策謀を仕組み、花山天皇を唆して内裏から連れ出し出家退位させてしまう。この事件の際に道長は天皇失踪のことを関白頼忠に報告する役割を果たした。 速やかに幼い懐仁親王が即位(一条天皇)して、外祖父の兼家は摂政に任じられた。兼家は息子たちを急速に昇進させ、道長も永延元年(987年)には従三位に叙し、左京大夫を兼ねた。翌永延2年(988年)正月、参議を経ずに権中納言に抜擢された。 これより以前に、道長は左大臣・源雅信の娘・倫子と結婚し、永延2年(988年)には長女彰子が雅信の土御門殿で誕生している。続いて安和の変で失脚した左大臣・源高明の娘・源明子も妻とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原道長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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