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藤原重頼[ふじわら の しげより] 藤原 重頼(ふじわら の しげより、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての廷臣・受領・鎌倉幕府御家人。藤原北家顕隆流。中宮権大進藤原重方の長男。兄弟に能頼、忠方、葉室光雅室らがあり、子に頼行、重光、有頼、頼隆らがある。官位は従四位下、蔵人、春宮少進、宮内権大輔、陸奥守、相模守(『尊卑分脈』)。 == 経歴 == 葉室家の傍流にあたる受領層の家系に生まれる〔父重方は白河院の近臣として権勢をふるった藤原顕隆の次男顕能の五男。〕が、父重方は三事兼帯を務めた有能な実務官僚であった(『尊卑分脈』)。また親族となる摂津源氏の源頼政の息女(二条院讃岐)を娶ったことが知られる〔祖父顕能と舅頼政は再従兄弟の関係にある。〕。治承2年(1178年)6月に範子内親王の斎院卜定所となっていた「中御門南、京極西」の重頼の邸宅が翌同3年(1179年)3月に火災により焼失したが、この時宮内権大輔であった(『山槐記』治承2年6月27日条、『玉葉』同3年3月26日条)。平家滅亡後、義兄弟にあたる源頼兼・広綱らと共に鎌倉に仕え、源頼朝の側近の一人となる。文治元年(1185年)10月の勝長寿院落慶供養では会場設営以下の奉行を務めたほか、翌同2年正月の頼朝の鶴岡八幡宮参詣においても側近の一人として随行した(『吾妻鏡』同年10月24日条・同正月3日条)。 また舅源頼政の所領であったと推測される若狭国遠敷郡松永・宮川両保(福井県小浜市北東部)の地頭となっており、文治4年(1188年)9月に若狭国衙に対する横妨を国司から訴えられているほか、平家没官領であった隠岐国犬来・宇賀両牧(島根県隠岐郡隠岐の島町犬来・西ノ島町宇賀)の地頭をも務め、こちらでも同年11月に隠岐国司仲国から国内における非法を訴えられている(『吾妻鏡』同4年9月3日条・同11月21日条)。その後は、建久5年(1195年)12月に頼兼と共に鎌倉に下り永福寺薬師堂供養等に随行したほか、翌同6年(1196年)3月の東大寺供養にも側近の一人として頼朝に供奉している(『吾妻鏡』同5年12月20日・26日条・同6年3月12日条)。頼朝の死後、建仁元年(1201年)10月に源頼家の催した蹴鞠の判定人として「相模守重頼」の名がみえていることから、その後相模守となっていた可能性がある(『吾妻鏡』同年10月21日条)。 没年は不明であるが、出家し「讃岐尼」と称された妻・源頼政女が文暦2年(1235年)以前に若狭国宮川保の地頭となっていることが確認されている(『秦文書三号』)。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原重頼」の詳細全文を読む
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