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藤原長兼[ふじわら の ながかね]
藤原 長兼(ふじわら の ながかね)は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。正三位権中納言。三条と号す。日記『三長記』の記者。歌人としても名高い権中納言藤原長方の二男。母は藤原通憲(信西)の娘。本名は頼房。子には長資、長朝、長嗣、源通方の室となった藤原則子、久我通基の室となった女子がいる。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 安元2年(1175年)2月18日、叙爵〔本名は頼房。従三位盛子の承安2年給による。〕。文治2年(1186年)11月27日、甲斐守に任ぜられる。文治3年(1187年)11月8日、従五位上に昇叙〔朝観行幸時の院司の賞による。〕。建久元年(1190年)4月26日、中宮権大進を兼ねる。建久2年(1191年)1月5日、正五位下に昇叙〔殷富門院御給による。〕。5月2日、父長方の喪から明けて復任。建久6年(1195年)11月12日、蔵人に補される。正治2年(1199年)3月6日、中宮大進を兼ねる。4月1日、権左少弁に任ぜられる。蔵人と中宮大進は元の如し。同月15日、春宮権大進を兼ねる。建仁元年(1201年)8月19日、左少弁に転任。12月22日には蔵人を辞した。建仁2年(1202年)閏10月24日、権右中弁に転任。11月19日、従四位下に昇叙。同月22日、大進は元の如し。28日には氏院別当に補される。建仁3年(1203年)11月30日、従四位上に昇叙〔東大寺供養の行事による。〕。元久元年(1204年)4月12日、左中弁に転任し、蔵人頭に補される。4月27日には装束使にも補される。元久2年(1205年)1月29日、正四位下に昇叙。3月9日には修理左宮城使に補される。同月28日、兄宗隆が薨去した。建永元年(1206年)4月3日、右大弁に転任。10月20日、参議に任ぜられる。同日、左大弁に転任〔この年に造東大寺長官に補されるか。〕。承元元年(1207年)1月13日、伊予権守を兼ねる。4月10日、勘解由長官を兼ねる。10月29日、従三位に叙される。承元3年(1209年)4月14日、権中納言に任ぜられる。承元4年(1210年)1月6日、正三位に昇叙。建暦元年(1211年)10月2日、権中納言を辞した〔息男である長資を右少弁に挙任のため。〕。建保2年(1214年)2月8日、出家。法名は覚阿。
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