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藤原長子[ふじわら の ながこ]
藤原 長子(ふじわら の ながこ、承暦3年(1079年)頃 - 没年不詳)は、平安時代後期の女官である。『讃岐典侍日記』の作者。父は讃岐入道藤原顕綱。兄に藤原家通。女房名は讃岐典侍(さぬきのすけ)。 == 生涯 == 姉兼子が堀河天皇の乳母であったことから、康和2年(1100年)堀河天皇に出仕〔* name=syusshi/>、翌年暮に典侍に任じられ〔* name=suke/>、その身近で「もろともに八年の春秋」〔を過ごした〔* name=concubine/>。嘉承2年(1107年)7月、堀河天皇の病重く重態に陥ると、その側を離れず最期の時まで看病し続けた。 一度は、宮仕えから身を退いたが、翌天仁元年(1108年)から白河院の強い意向を受け、幼帝鳥羽天皇の典侍として再出仕した。その後、時期は不明だが、典侍の職を辞していたと思われる。 元永元年(1118年)秋ごろから、しばしば先帝堀河院の霊が憑き、鳥羽天皇を守護すると称して内裏に常駐するようになった。そして中宮璋子(待賢門院)の懐妊を予言、皇子誕生を朝夕に内侍所で祈り、翌元永2年(1119年)実現させた(後の崇徳天皇)。鳥羽天皇をはじめとして内裏での信を得ていたが、やがて堀河院の霊の言葉として、兄道経を近江守に任ぜよと命じたり、種々雑多のこと〔* name=hotate/>を言い出し、白河院により参内を停止された〔* name=cyoshuki/>。 これら以外の伝記的情報は乏しい。藤原俊成の母とする説もあった〔* name=syunzei/>が、その可能性は低いとされる〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原長子」の詳細全文を読む
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