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藤原長良[ふじわら の ながら]
藤原 長良(ふじわら の ながら/ながよし)は、平安時代前期の公卿。陽成天皇の外祖父にあたる。 == 生涯 == 嵯峨朝の実力者左大臣・藤原冬嗣の長男として生まれる。仁明天皇が東宮であったころより信頼が篤く常に近侍していたという。一方で仁明天皇即位後には急速に昇進した次弟・良房に官途で先を越されている。仁明朝では蔵人頭・左兵衛督を歴任し、承和11年(844年)良房に遅れること10年にして参議として公卿に列す。 嘉祥3年(850年)甥の文徳天皇が即位すると正四位下次いで従三位、翌仁寿元年(851年)には正三位と続けて昇叙されるが、同年10歳以上年少の同母弟・良相が先に権中納言に任ぜられ、その後塵を許す。仁寿4年(854年)権大納言に昇進した良相の後任として権中納言に昇進、斉衡3年(856年)には従二位に叙せられるが、まもなく没した。最終官位は権中納言兼左衛門督従二位。享年55。 死後、娘の高子が清和天皇の女御となり、高子所生の貞明親王が即位(陽成天皇)したことに伴い、元慶元年(877年)に正一位・左大臣、ついで元慶3年(879年)に太政大臣を追贈された。 昇進は弟の良房や良相に遅れをとったが、両弟に比べ子女に恵まれ子孫は大いに繁栄した。特に三男の基経は良房の養子となり、その子孫からは五摂家を初めとして多数の堂上諸家を輩出した。また、中世以前においては、基経の父を養父である良房ではなく実父の長良であると捉える(長良を摂家の祖とする)観念が強く、『大鏡』の「大臣列伝」の配列に影響を与えている(藤原北家の嫡流を良房ではなく長良とする)とする説がある〔栗原弘「平安前期の養子」(『平安前期の家族と親族』(校倉書房、2008年) ISBN 978-4-7517-3940-2 第三部第二章)〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原長良」の詳細全文を読む
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