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藤原雄友[ふじわら の おとも] 藤原 雄友(ふじわら の おとも、天平勝宝5年(753年) - 弘仁2年4月23日(811年5月18日))は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原南家、右大臣・藤原是公の次男〔『日本後紀』弘仁2年4月23日条〕。官位は正三位・大納言。 == 経歴 == 延暦2年(783年)従五位下・美作守に叙任すると、延暦4年(785年)従五位上・兵部少輔・左衛士権督、延暦5年(786年)正五位上・兵部大輔・左衛士督、延暦6年(787年)従四位下と延暦年間の前半に急速に昇進し、延暦9年(790年)38歳にして参議に任ぜられ公卿に列す。のち大蔵卿・近衛大将・大宰権帥と要職を歴任し、延暦17年(798年)従三位・中納言、延暦23年(804年)正三位に至る。 延暦25年(806年)平城天皇の即位後、大納言に昇進。桓武朝で競うように昇進していた藤原北家の藤原内麻呂は右大臣となったためにその後塵を拝するが、雄友は太政官の次席の地位にまで至った。しかしながら、翌大同2年(806年)天皇の弟で、雄友の甥(妹・吉子の子)にあたる伊予親王に対して藤原宗成が謀反を勧めているという情報を得たことから、雄友は右大臣・藤原内麻呂に報告するが、結局吉子・伊予親王母子は逮捕・幽閉され、まもなく自殺してしまう。雄友も伯父として連座し、伊予国への流罪となった(伊予親王の変)。 嵯峨朝に入り、薬子の変発生中の弘仁元年(810年)の9月10日に罪を赦されて本位(正三位)に復され、弾正尹に任ぜられる。翌弘仁2年(811年)宮内卿に任官するが、まもなく死去。享年59。最終官位は宮内卿正三位。即日大納言の官職を贈られた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原雄友」の詳細全文を読む
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