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難波 頼輔(なんば よりすけ)は、平安時代後期から末期の公卿・歌人。藤原北家難波流、大納言・藤原忠教の四男〔『公卿補任』〕。蹴鞠の二大流派、難波・飛鳥井両家の祖。 == 生涯 == 母方の賀茂神主家に蹴鞠の名手が多かったことから、幼少より鞠を習い「蹴聖」と称された藤原成通に教えを受けたという。天治2年(1125年)従五位下に叙爵。大治2年(1127年)山城守に任ぜられ、保延2年(1136年)治国を賞されて従五位上に昇叙されている。 久寿3年(1156年)正五位下に叙せられるが、同年に発生した保元の乱では、次兄・教長が崇徳上皇の側近であったために常陸国に配流となり、頼輔は乱への積極的な関与はなかったものの、東山に籠居した。その後、芸能を愛する後白河法皇に蹴鞠の才能を認められ、藤原師長・源資賢とともに院近臣に加えられた。その蹴鞠の才は「無双達者」「本朝蹴鞠一道之長」と称された。 永暦元年(1160年)に豊後守となり、鼻が大きかったことから「鼻豊後」と呼ばれた。永万2年(1166年)、息子・頼経の壱岐守への任官と引き替えに豊後守を辞するが、引き続き豊後国に留まり国務にあたった。同年に従四位下・皇太后宮亮、仁安3年(1168年)に従四位上、嘉応2年12月(1171年2月)に刑部卿、承安元年12月(1172年1月)に正四位下に叙任。 治承5年(1181年)に平清盛が没すると各地で反乱が起こり、頼輔の知行国であった豊後も動乱状態となった。頼輔は知行国の支配安定を図るため豊後に下向〔『玉葉』〕、現地の武士・緒方惟栄の説得に成功する。なお、寿永2年(1183年)10月、都を追われ九州に逃れてきた平家一門を撃退したのは、頼輔の命を受けた維栄だった。 養和2年(1182年)、上位者5名(源俊光・藤原季経・藤原泰通・藤原雅隆・藤原信経)を越えて従三位に叙せられ公卿に列した。寿永2年(1183年)周防権守を兼任。文治2年(1186年)2月、病悩により出家するが、同年4月5日に薨去。享年75。 歌人としての活動も活発で、源頼政・藤原清輔・寂蓮ら多くの歌人と交流があった。『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に28首入集している〔『勅撰作者部類』〕。家集に『頼輔集』がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「難波頼輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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