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藤原顕季 : ウィキペディア日本語版
藤原顕季[ふじわら の あきすえ]
藤原 顕季(ふじわら の あきすえ、天喜3年(1055年) - 保安4年9月6日1123年9月27日))は、平安時代後期の貴族歌人美濃藤原隆経の息子。官位正三位修理大夫六条修理大夫と号した。歌道家の流派のひとつ六条藤家の祖。善勝寺流初代。
== 経歴 ==
藤原北家魚名流で、魚名の子末茂の後裔である正四位下美濃藤原隆経〔実の父は系図上の兄に当たる無位無官の師隆であり、父が無官であるため、顕季を祖父隆経の子としたという説もある(竹内理三『日本の歴史 6 武士の登場』中公文庫、1973年、197頁)。〕の子として生まれる。末茂の子孫では光孝天皇の母藤原沢子の甥として中納言に昇った有穂が唯一の公卿であり、顕季の家は代々受領を務める中級貴族に属する家であった。
母親が白河天皇の乳母であったため、乳兄弟として白河天皇の信任が厚く、若い頃より讃岐国丹波国尾張国上国国司を歴任。永保3年(1083年)には29歳にして早くも正四位下に昇進する。その後も大国である播磨守や大宰大弐に任官する等により財力を蓄え、その邸宅六条殿は白河院の院庁となるほど豪勢なものであった。また、家格を上げるために、白河上皇の生母藤原茂子の兄である藤原実季の養子にもなった。
院の近臣として権勢を誇り、長治元年(1104年)には従三位に昇進、末茂の子孫としては前述の有穂以来の公卿となった。しかしながら、議政官への昇進は叶わず、極官は正三位・修理大夫であった。なお、顕季が白河法皇に対して参議への任官希望を伝えたものの、漢詩が作れないことを理由に沙汰止みになったとされる〔『今鏡』すべらぎの中 第2 釣せぬ浦々〕。
顕季の3人の息子(長実家保顕輔)及びその子孫も院の近臣として活躍。顕季から始まる家系は善勝寺流と呼ばれ、四条家を始めとして、7家の堂上家羽林家)を輩出した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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