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藤原顕実 : ウィキペディア日本語版
藤原顕実[ふじわらあらわみ]

藤原 顕実(ふじわら の あきざね)は平安時代中期から後期にかけての公卿権中納言藤原資仲の長男。官位従三位参議
== 経歴 ==
康平4年(1061年従五位下叙爵治暦5年(1069年)に三河権守に任ぜられ、延久2年(1070年兵部少輔に遷った。延久3年(1071年)に左兵衛佐に任官。
延久4年(1072年)従五位上・右兵衛佐に叙任され、延久6年12月(1075年1月)左近衛少将に任ぜられる。承保2年(1075年)には備前権介を兼ね、右近衛少将に転じる。承保4年(1077年)に正五位下、続けて従四位下に叙せられ、承暦4年(1080年)に美作権守を兼ねた。永保2年(1082年)従四位上に進み、応徳2年(1085年)備前権介を兼任する。応徳4年(1087年)3月の石清水臨時祭では舞人に奉仕した。
寛治3年(1089年)3月、太政大臣藤原師実が二度目の上表を行った際には、勅答使となる。寛治4年(1090年太皇太后亮に任ぜられて章子内親王に近侍。周防権介を兼ねる。寛治8年(1094年)に右近衛少将に転任し、嘉保2年(1095年正四位下備後介に叙任された。
康和2年(1100年)美作介を経て、康和4年(1102年堀河天皇蔵人頭に補任される。これに際して藤原宗忠は、すでに顕実は54歳という高齢であるが、名家・小野宮家の末流であり、同じ小野宮流の人々の中でも「三代殿上之侍臣」として、夙夜奉公することを怠らなかったため、顕実がこれに補任されることは道理であると評している〔『中右記康和4年6月23日条。〕。同年11月27日、邸宅が焼亡した。
康和6年(1104年丹波権介を兼ね、東宮昇殿を聴された。続いて、長治3年(1106年参議に任ぜられて58歳にして公卿に列し、昇殿を聴される。さらに嘉承2年(1107年)に美作権守を兼任する。同年2月には祈年穀奉幣の奉幣使、4月には梅宮祭の上卿も務めた。
天仁元年(1108年)に従三位・丹波権守に叙任されるが、天永元年(1110年)閏7月13日に62歳で薨去した。
祖父・資平は32歳にして参議となり、大納言まで昇った。また、父・資仲は48歳で参議となり権中納言にまで至ったが、顕実は参議任官時すでに58歳であり極官は従三位・参議であった。子である資信は参議任官時すでに68歳であったが長命を保って中納言に至る。しかし、結果的に資信が小野宮流出身の最後の公卿となり、同流は没落していった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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