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藤原顕隆[ふじわら の あきたか] 藤原 顕隆(ふじわら の あきたか、延久4年(1072年)- 大治4年1月15日(1129年2月5日))は、平安時代末期の公卿。藤原北家高藤流(勧修寺流)。参議・藤原為房の次男。葉室家の祖。正三位・権中納言。葉室中納言と号す。 == 経歴 == 父・為房と同じく白河法皇に近臣として仕える。承徳2年(1098年)破格の出世で右少弁となる〔「左衛門権佐顕隆右少弁に任ぜらる、年二十八云々。世人耳目を驚かす」『中右記』〕。 保安元年(1120年)に藤原忠実の内覧が停止されると、その権勢は当たらざる勢いとなり、翌保安2年(1121年)に忠実が関白を辞した際には忠実の叔父・家忠の後継就任案が浮上したが、稲荷祭の際に院近臣として顕隆と法皇の寵愛を競っていた藤原顕季が家忠と密談していたという情報を手に入れると直ちに法皇に反対論を述べてこれを退けさせる〔『愚管抄』巻4〕など、自らの官職を越えて重要な政策の決定に関わった。『今鏡』によれば、それが夜になってからのことが多かったため、世上「夜の関白」とあだ名されたという。『中右記』には「天下の政、この人の言にあり」〔「天下の政は此の人の一言に在る也、威一天に振い、富四海に満つ。世間の貴賤、傾首せざるはなし。」『中右記』〕とまで述べられており、院政期を代表する政治家の一人である。 日記として『顕隆卿記』があり、京都大学総合博物館(勧修寺家本)、及び国立歴史民俗博物館(田中本)に伝わっている。 子孫は後世において葉室家を称し、中世・近世を通じて堂上家(名家)の一つとして繁栄した。
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