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藤村信子 : ウィキペディア日本語版
藤村信子[ふじむら のぶこ]
藤村 信子(ふじむら のぶこ、本名・比護(ひご)信子、1965年(昭和40年)12月18日 - )は、京都府亀岡市出身の元女子陸上競技選手、現教職員及び陸上競技指導者大阪体育大学卒業。広島アジア競技大会女子マラソン銅メダリスト、世界陸上選手権アテネ大会女子マラソン日本代表。
== 経歴 ==
当初、京都府立南丹高等学校在学時まで短距離走専門の選手であった。1983年、同高校3年生時に名古屋インターハイ・女子400mで7位入賞。1984年4月、大阪体育大学に入学。同大学陸上部では中距離走長距離走のランナーへと転向する。
大学卒業後の1988年4月、かつて鈴木従道監督が率いたダイハツ工業に入社、女子陸上部に所属。同陸上部にはバルセロナオリンピック女子マラソン代表の小鴨由水(現姓・松永)、世界陸上シュトゥットガルト大会女子マラソン金メダリスト・アトランタオリンピック代表の浅利純子(現姓・高橋)、パリマラソン女子の部優勝の吉田光代(現姓・和田)等がいた。
社会人入りしてから5年後の1993年1月、大阪国際女子マラソンで初マラソンに挑戦、4位だった。同年8月の北海道マラソンでは、30度を超す猛暑の中レース前半から独走、終盤でペースが落ちたもののそのまま逃げ切って、フルマラソン初優勝を果たした。
1994年1月の大阪国際女子マラソンでは、当時の日本女子最高記録となる2時間26分09秒をマークしたが、優勝した安部友恵と同タイムながらもわずかに及ばず2位だった。この成績で同年10月の広島アジア競技大会女子マラソン代表となる。そのアジア大会本番レースでは、同女子マラソン代表だった安部が欠場を表明、日本女子は藤村ただ一人の出場となった。しかし藤村は中間点を過ぎた23Km付近、突然下痢〔本人談からのようだが、色などの状況より、解説の増田明美は生理であると唱えている。〕に襲われるというアクシデントに見舞われる。その影響でレース後半大幅にペースダウンしながらも、なんとか銅メダルを獲得した。
1995年11月の東京国際女子マラソンで優勝し、後にアトランタオリンピック女子マラソン代表となったチームメートの浅利純子に続いて、藤村自身も1996年1月の大阪国際女子マラソンでアトランタ五輪代表入りを目指したが、30Km過ぎで先頭集団から脱落して8位と敗退、念願の五輪選出はならなかった。
同年11月の東京国際女子マラソンでは、復活を賭けての出走となったが、途中アトランタ五輪女子マラソン金メダリストのファツマ・ロバらを抜いて逆転、約3年ぶりのフルマラソン優勝となった。翌1997年8月の世界陸上選手権アテネ大会女子マラソン代表に選出される。その世界陸上女子マラソン本番レースでは10位に留まったが、女子マラソン団体戦では日本代表の優勝に貢献し、金メダルを獲得した。
1998年1月の大阪国際女子マラソンでは15位に終わり、これが藤村の現役選手として最後のフルマラソンとなる。翌1999年3月にダイハツを退社し、第一線から退いた。その後暫くは一市民マラソン選手として、名古屋国際女子マラソンや市民マラソン大会のゲストランナーとしての出走、また全国各地へランニング教室の講師としてのイベント活動などを行っていた。
2005年4月、藤村の母校である府立南丹高校・保健体育科教員及び陸上部顧問に就任。その傍らで2006年から2010年まで5年間、毎年1月に京都で開催される全国都道府県対抗女子駅伝競走大会の、京都チームのコーチを務めていた(当時の監督は藤村と同じ南丹高校出身・ダイハツ所属の後輩だった、現立命館大学女子陸上部長距離コーチ・十倉みゆき2007年~2010年の4年間担当。2011年からは早狩実紀が監督に就任)。
2015年4月、難波祐樹が南丹高校陸上部顧問・監督就任に伴い、比護は同校陸上部・部長へ転任。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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