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藤森 弘庵(ふじもり こうあん、寛政11年3月11日(1799年4月15日) - 文久2年10月8日(1862年11月29日))は、幕末の小野藩士、土浦藩士。 小野藩士藤森義正の子、母は猶子(堀越伊兵衛の娘)。諱は大雅。字は淳風。通称・恭助。天山、如不及斎と号した。 ==人物== 江戸に生まれる、柴野碧海・長野豊山・古賀穀堂・古賀侗庵らに師事する。帰藩後は父の跡を継いで右筆、また世子一柳末延の侍講となる。また藩主一柳末周に時勢について建言するも容れられず、天保5年(1834年)致仕し、江戸で私塾を開いた。間もなく久保田藩士碓井左中の紹介で土浦藩に入り、藩主土屋彦直・寅直に仕え、朱子学を普及させる。天保10年(1839年)藩校郁文館の創立に貢献、督学として藩士子弟の教育に当たった。 天保14年(1843年)郡奉行となって主に訴訟事件の解決に奔走。また寅直の諮問を受けて郡制改革を進言した。しかし弘化3年(1846年)部下に連座して郡奉行を辞職、さらに権力闘争に巻き込まれて弘化4年(1845年)藩を辞して江戸に戻った。 後に江戸下谷に私塾を開き、嘉永6年(1853年)ペリー来航に際して『海防備論』を著し、また『芻言』を執筆して水戸藩の徳川斉昭に建白。安政4年(1857年)上洛して梁川星巌や頼三樹三郎、梅田雲浜、月性らと交流して帰府。勤皇活動を行うも、安政5年(1858年)安政の大獄に連座し江戸で捕えられ、江戸町奉行から水戸降勅についての尋問を受けた。安政6年(1859年)追放刑となり下総国行徳に移る。文久2年(1862年)赦免され、江戸の次男光吉邸に移り、同年同地で死去した。 墓所は東京都港区の曹渓寺。 著書には民政書や海防書をはじめ数多くを残し、また唐宋文や漢詩に優れた才能を発揮した。伝記に『叢書・日本の思想家37.梁川星巌・藤森弘庵』(上野日出刀、明徳出版社、1998年) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤森弘庵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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