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藤沢空襲[ふじさわくうしゅう]
は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)にアメリカ軍により行われた神奈川県藤沢市に対する空襲である。藤沢は鎌倉市や小田原市と同様に地域一帯を焼き払う絨毯爆撃を受けることはなかったが、県内や関東地方の都市に対する空襲の余波や艦載機やP-51 マスタングによる数度の攻撃を受けた。同年8月28日付けの『朝日新聞』の報道によると、県の発表では藤沢市内の人的被害は死者21人、重傷16人、軽傷23人。建物被害は全焼8戸、半焼2戸、全壊12戸、半壊12戸としている。 == 経緯 ==
=== 2月の空襲 ===
2月10日23時10分、アメリカ軍のB-29爆撃機1機が〔、相模湾より侵入し高座郡御所見村の山林および畑地に焼夷弾数発を投下したが被害はなかった〔水谷、織田 1975、148頁〕。なお、同日午後には群馬県新田郡太田町の中島飛行機太田製作所に対する空襲が行われており一部は浜松や名古屋方面へ向かった〔水谷、織田 1975、124-125頁〕。 2月16日、硫黄島の戦いを間近に控えたアメリカ海軍第5艦隊第38任務部隊のマーク・ミッチャー中将は、同作戦の牽制のため指揮下の空母機動部隊を日本近海へ進めると、早朝から数波にわたって艦載機を発艦させて関東地方及び静岡県の軍事施設を攻撃した〔水谷、織田 1975、128-130頁〕。藤沢上空には艦載機273機が飛来したが、被害状況は定かでない〔。 2月17日、前日に続きミッチャー中将は6時45分から艦載機を発艦させ、8波にわたって関東地方や東海地方の軍事施設や軍需工場を攻撃した〔水谷、織田 1975、131-132頁〕。藤沢上空には艦載機320機が飛来したが〔、『日本列島空襲戦災誌』は被害状況について、茅ヶ崎や藤沢一帯の工場が銃撃を受け負傷者数名と記している〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤沢空襲」の詳細全文を読む
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