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藤田 元司(ふじた もとし、1931年8月7日 - 2006年2月9日)は、愛媛県新居浜市出身のプロ野球選手(投手)、監督、野球解説者。 巨人の中心投手として2度の日本一・5度のリーグ優勝に貢献。 監督としても長嶋茂雄・王貞治の後を継いで2度の日本一・4度のリーグ優勝に輝いた。 == 経歴 == === 現役時代 === 愛媛県新居浜市出身(越智郡宮窪村四阪島生まれ)。旧制愛媛県立新居浜中学校(現・愛媛県立新居浜東高等学校)在学中に終戦を迎え、学制改革に伴って新制愛媛県立西条北高等学校(現・愛媛県立西条高等学校)へ転校した。同校でバッテリーを組んでいたのがNHK高校野球中継の解説で有名だった池西増夫、同級生にフライ級プロボクサーで三迫ボクシングジム初代会長の三迫仁志がいる〔糸井重里との対談に詳しいが、旧制中学・新制高校時代はケンカにも強く、番長格で高下駄を鳴らして闊歩したり、喧嘩相手を何日も待ち伏せしたりするなど、後のイメージとは正反対のバンカラだった。高校を転校した理由の一つに、イメージからは信じられないような逸話を披露している。〕。 慶應義塾大学へ進学後、オーソドックスなオーバースローから繰り出す快速球を武器に東京六大学リーグのスター選手として神宮球場を沸かせた。リーグ戦では通算63試合に登板して31勝19敗、227奪三振を記録したが、リーグ優勝は1年春の1回のみで、度重なる力投が報われず「悲運のエース」とも呼ばれた。 大学卒業後、日本石油を経て、に大学の先輩である水原茂の誘いで読売ジャイアンツに入団(大学・社会人時代、後に西鉄ライオンズへ入団する花井悠とはチームメイトだった)。 入団1年目から17勝をあげて新人王に輝くと、には29勝、には27勝をあげてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、2年連続シーズンMVPを獲得した。 また、1959年6月25日に天覧試合として行われた対大阪タイガース戦では巨人の先発投手として晴れの舞台に立ち、完投勝利を挙げた。 しかし、日本シリーズでは奮闘するもなかなか日本一の栄冠に届かず、ここでも「悲運のエース」と呼ばれることとなった。1958年の日本シリーズにおいては、西鉄のエース・稲尾和久と並ぶ6試合に登板、防御率1.09を記録したものの、打線の援護なく1勝2敗に終わった。このシリーズでは、3勝1敗で迎えた第5戦、3-2と1点リードの9回裏2死3塁、あとアウト1つで日本一という場面まで迫ったが、このシリーズ不振だった関口清治に対し、胸元にシュートを投げ起死回生の中前タイムリーヒットを浴びている。結局この試合は稲尾のサヨナラホームランで西鉄が勝利、西鉄奇跡の逆転優勝につながるのだが、藤田によれば関口の打球は藤田の右肩口の上を力なく飛んでいったといい、「右手をちょいと出せば取れたのではないかと今でも思うことがあるよ」と後年になってもよく思い出していたといい、選手、監督として様々なタイトルや表彰に恵まれた藤田が「たった1つ取れなかったもの」とも語っている〔文春ビジュアル文庫『豪球列伝』文藝春秋社〕。 また、翌1959年の日本シリーズでは南海のエース・杉浦忠の4連投4連勝の陰で第2戦、第3戦、第4戦と3試合連続で先発、22イニングを投げたが(4試合シリーズでは杉浦の32イニングに次ぐ記録)、やはり奮闘報われず2敗を喫している。1958年第4戦から第5戦にかけて5連敗という不名誉な日本シリーズタイ記録も持っている(他に村山実、北別府学)。その痩身と味方の貧打に耐え忍ぶ姿から、元司の音読みに掛けて「ガンジー」とも呼ばれた。 登板過多で肩を故障したことにより以降は成績が急降下。1961年、1963年の日本一メンバーでもあるが、1961年の日本シリーズでは第3戦、第5戦に先発するもともに早い回でKO(第3戦は3回途中、第5戦では1回)、の日本シリーズでは第2戦で城之内邦雄をリリーフして勝利投手になったものの4失点、第4戦では先発するも4回途中で降板と、エースらしい働きはできなかった。 1963年にコーチ兼任となり〔監督・コーチングスタッフ(1960〜1969年) - スポーツ報知〕、に現役を引退。プロ入りの時期が遅かったこともあり、現役生活はわずか8年にとどまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤田元司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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